大阪地方裁判所堺支部 昭和63年(わ)506号 判決 1991年3月25日
主文
被告人を罰金一〇万円に処する。
未決勾留日数中二五日を、その一日を金四〇〇〇円に換算して、右刑に算入する。
昭和六三年九月一九日付け起訴の公訴事実(殺人、強姦致死)について被告人は無罪。
理由
(犯行に至る経緯)<省略>
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和六三年七月四日午前三時ころから午前五時ころまでの間、大阪府堺市<番地略>のA(当時三九歳)方において、同女並びにその場に同席していたB(当時三五歳)、C(当時三八歳)及びD(当時四二歳)の四名に対し、「Aがやってるところが写ってるビデオや写真をおれが一八〇万円出しておさえたんや。」などと虚構の事実を申し向けたうえ、「このビデオや写真が流れたらどないするんや。お前ら仲間やったら一八〇万円用意せい。二週間以内に準備せい。」、「お前よう払わんのやったらビデオや写真を町内中にばらまいてもええんか。わしは普通の人間と違うんや、一八〇万円出すんか出さんのかどっちゃねん。」などと語気鋭く申し向け、もってAら四名の身体及び同女の名誉に危害を加えかねない気勢を示して脅迫したものである。
(証拠の標目)<省略>
(恐喝未遂の公訴事実を脅迫罪として認定したことについての補足説明)<省略>
(昭和六三年九月一九日付け起訴の公訴事実の無罪の理由)
第一 本件公訴事実は、
「被告人は、昭和五九年六月二九日午後九時三〇分ころ、大阪府堺市<番地略>○○ビル付近路上に差し掛かった際、同ビル地下へ赴くE(当時七歳)を認め、同女を知人の子供と思い、同ビル地下まで追い掛けたところ、同所で人違いだと気付いたが、同女がかわいい子であったことからにわかに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようと決意し、そのころ、同ビル地下一階男子共同便所の大便所内において、同所にいる同女に言葉巧みに近寄り、同女着用のズボン及びパンツをはぎ取って、その陰部をもてあそぶなどしたうえ、無理やり同女を抱きかかえて姦淫行為に及んだところ、同女が『痛い、痛い』などと言って騒いだので口をふさぐなどの暴行を加えたが、同女がなおも騒ぐため、自己の犯行が露見するのを恐れ、殺意をもって同女の頸部を右手で絞めつけ、よって、強姦の目的を遂げるとともに、そのころ、右扼頸により同女を窒息死させて殺害したものである。(殺人、強姦致死)」
というのである。
右公訴事実について、これに沿う内容の被告人の捜査段階における供述及びこれを裏付けるかのような他の証拠が一応存在する。しかしながら、被告人は当公判廷において、また検察官に対して犯行を否認しているところである。そして弁護人及び被告人は、被告人の捜査段階における供述中司法警察職員に対するものの大部分についてはその任意性及び信用性を争っているところであり、被告人の右捜査段階における供述を通観すると、供述内容は大きく変遷しているのみならず相互に矛盾し客観的状況に符合しない点が多々あり、また具体性・迫真性に欠け不自然な点もあって、到底右公訴事実の認定に供し得るだけの証拠価値があるものとは認められず、信用性に欠け、そのうえその多くのものについては任意性も認められないものである。さらに他の証拠は信用性に乏しいか右公訴事実の認定を積極的に裏付けるものではなく、消極的に右事実を認定することの妨げとならず、認定に供したとしても不合理ではないとする消極的な機能をもっているに過ぎないものである。
かようなわけで、結局本件公訴事実については証拠による証明がないものと考えた。以下にその理由を述べるが、まず判断の前提となる事実を認定することとする。
第二 本件事案の概要及び本件被害者の発見された○○ビルの状況等
<書証番号略>によると、次の事実を認めることができる。
一 本件被害者の発見状況
昭和五九年六月二九日午後九時五〇分ころ、大阪府堺市<番地略>の○○ビルの地下一階において「そば処・民芸」を経営するLは、同ビル地下一階の南東隅にある男子共同便所(以下本件便所という。)に用達に行った際、同便所内の大便所(以下本件大便所という。)方向を見ると、ドアが約二〇センチメートルくらい開いており、そこから人の足が見えたので、中をのぞいてみると、下半身裸の女児が頭部を東方にして仰向けの状態で横たわっているのを発見し、既に死亡している様子だったことから直ちに大阪府堺東警察署に通報した。右通報を受けた同署は同日午後九時五七分、堺市・高石市消防組合消防本部堺消防署に通報し、さらに右堺消防署は、同ビルの所在する地域を管轄する同消防署の東堺出張所に同ビルへの出動を指示した。右指示に基づき同出張所勤務の磯野通宏ら三名の救急隊員は救急車で同ビルに向かい、同日午後一〇時一分に同所に到着し、本件便所に入り、本件大便所内を見ると、ピンク色のTシャツを着用していた年齢七、八歳くらいと思われる女児が下半身を露出した状態で頭部を東に向け、陶器製の和式便器の縁をまたぐようにして両足を拡げ、両手を上に伸ばした格好で仰向けに倒れていた。右隊員は、分担して右女児の身内の者を捜したり、女児の呼吸や脈拍の有無を調べたりしているうち、同所に警察官が臨場して来たので、同警察官から右女児の病院への搬送許可を得て、右大便所内南西隅の高さ約1.5メートルの位置に電気コードでつるされていた防臭剤の上に置いてあった同女のピンク色のパンツとピンク色の半ズボンのうち半ズボンを右女児にはかせたうえ、同日午後一〇時一二分、同市向陵中町四丁二番一〇号所在の清恵会病院に搬送した。しかし、同日午後一〇時三五分に同病院において警察医によって行われた検視の結果、女児は既に死亡していることが確認され、その死因は絞扼によるものと推定された。
右女児は、同市<番地略>に居住する同市立△△小学校二年生のE(当時七歳、昭和五二年一月二五日生、以下被害者という。)であることが判明した。
二 本件現場及びその付近の状況
1 本件現場の位置
本件現場は、国鉄(当時)阪和線堺市駅南約一〇メートル先のアスファルト道路を隔てた位置に北向きに建てられた鉄筋二階建て(一部三階建て)の○○ビルの地下一階飲食街の南東隅に設置された共同男子便所内の大便所内である。
2 現場付近の状況
(一) ○○ビル北側(正面)
○○ビル正面(北側)には、北から南へ幅員約五メートルの誘導通路を経て二階に上がる階段及びエスカレーター並びに地下一階へ通じる通路及び段階(以下、これらを一括して北出入口という。)があり、右誘導通路の北端は東西に伸びる幅員4.1メートルのアスファルト道路に通じ、この道路の両側には商店が密集して建ち並び、堺市駅東商店街を形成し、その北側は堺市駅に至る。右誘導通路の西側は鉄筋三階建ての第二アサヒバンビル、その北側にインテリア金岡の店舗が、右誘導通路の東側に鉄筋三階建ての泉州銀行堺市駅前支店の店舗がそれぞれ建ち並んでいる。
(二) ○○ビル西側
西側は幅員四メートルのアスファルト道路に接し、その西側には阪和線の線路が右道路に並行して走っている。
(三) ○○ビル南側
南側は幅員3.5メートルのアスファルト道路を隔てて西から東へ王将、手打ちうどん花車等の店舗が入居している鉄筋三階建ての花村ビルが建ち、その東側は駐車場となっている。
(四) ○○ビル東側
東側は、その北側は堺市駅東商店街の裏側となっており、その南側は1.62メートルの通路を隔ててお好焼店が存在する。
3 ○○ビルの状況
(一) 全般的状況
○○ビルは前記のとおり、二階建て(一部三階建て)及び地下一階のビルであり、一階はパチンコ店ジャンボが占め、二階にはゲームセンター、喫茶店等六店舗が入居し、屋上にはプレハブ建て事務所及びプレハブ建て学習塾並びにボイラー室が設置され、地下一階は一一店舗の入居した飲食店街となっている。
(二) 一階の状況
前記のとおり一階はパチンコ店ジャンボが占めており、同店出入口は西側と南側に各二か所設けられている。店内から直接地下一階あるいは二階へ通じる出入口はなく、同階へ行くためには同店外に設けられた南西出入口あるいは南東出入口階段を使用することとなる。同店北東隅に便所が一か所設置されている。
(三) 二階の状況
二階には喫茶店、ゲームセンター、書店、サラ金会社、美容室及びレコード店が入居しているが、その他管理人室が設けられ、管理人夫婦が居住している。同フロアー北東隅に男子便所及び女子便所がそれぞれ設置されている。二階に上がるには前記北出入口、南西出入口及び南東出入口の階段あるいはエスカレーターを利用するが、南東出入口の階段は美容室と管理人室にしか行くことができない。同フロアーの営業時間は午前八時から午後一〇時までとなっており、営業時間終了後は管理人がその出入口をシャッターを閉めることになっている。なお、同フロアーは年中無休となっている。
(四) 屋上の状況
その状況は前記のとおりであるが、屋上には南西出入口及び南東出入口の階段が通じている。学習塾の開講時間は午後五時から九時一〇分までの間である。
(五) 地下一階の状況
ア 地下一階への連絡
地下一階には前記の北出入口、南西出入口及び南東出入口の三か所の階段を使用して降りることができる。右各出入口にはシャッターが取り付けられており、定休日(当時は毎月一〇日)以外は午前七時三〇分ころ開けられ、翌日の午前一時ころ閉められるが、その間は自由に出入りすることができる。
イ 飲食街の状況
地階には合計一五店舗が設置され、本件当時はスナック、喫茶店、理容店等一一店舗が営業していた。店舗は北側と南側に各設置されているほか、北側の店舗からは幅員1.8メートルの通路、南側の店舗からは幅員1.76メートルの通路を隔てて中心部にも島状に店舗が並んで設置されている。北側の通路と南側の通路とはそれぞれ西側と東側とでつながっており、地下街を一周することができる。北側通路の東側は機械室で突き当たりとなり、機械室の前(西側)は北側通路と南側通路とを連絡する幅員二メートルの通路となっている。機械室の北西にはこれと接して女子用共同便所が設置されている。この女子用共同便所から通路を約一一メートル南へ行くと本件便所に至る。
ウ 本件便所の状況
本件便所は地下一階の南東隅にあって、南東出入口の階段を降りて左側に位置し、ビルの南側壁から北に八八センチメートル、右階段の上り口から南へ1.5メートルの位置に出入口用の鉄製片開引戸(北側に蝶番で固定)が設置されているが、約二年前(昭和五七年ころ)から下側の蝶番のねじが外れ、両手で持ち上げるようにしないと開閉できない状態にあって、開いたままになっていた。
本件便所は東西1.58メートル、南北4.3メートルの広さで全面にタイルが張られ、北端の西側に本件大便所が、その東隣に掃除道具入れが、東側タイル壁には三個の小便器が、南端のタイル壁には西側から手洗所の陶器製の容器が、それから一一センチメートル東隣に陶器製の水槽がそれぞれ設置されている。手洗所の容器は幅五四センチメートル、奥行き四三センチメートルあり、西側の壁から5.5センチメートルの間隔で床面から七三センチメートルの位置に設置されている。手洗所の容器の上面から四一センチメートルの高さの位置には幅49.5センチメートル(有効幅42.5センチメートル)、奥行14.5センチメートル(有効奥行き10.5センチメートル)の棚が設置され、さらに棚から高さ一〇センチメートルの位置(床面から1.78メートル)に縦六〇センチメートル、横80.5センチメートルの鏡が壁に接して設置されている。
本件大便所は幅(東西)1.02メートル、奥行き(南北)1.1メートルで、南の表側は黒色木製片開戸及び黒色木製板(西側幅三〇センチメートル、東側幅二六センチメートル)で仕切られている。右黒色木製片開戸は西側の黒色木製板と東側の黒色木製板との間に東側を蝶番で固定する形で設置され、北へ向けて内側に押し開くようになっており、高さ1.82メートル、幅六一センチメートルの大きさである。
右大便所の内部は、西側及び北側は白色タイル張り壁で東側は白色木製板張りでこれにより東隣の掃除道具入れと仕切られている。床面には西側壁から一八センチメートル、北側壁から三六センチメートル、片開戸から四六センチメートルの位置に外幅二七センチメートル(内幅18.5センチメートル)、長さ61.5センチメートルの両端が半円型の陶器製の和式水洗大便器が西向きに取り付けられている。床面から高さ約一八センチメートルの半裁の鉢状の金隠し部が便器の後端から44.5センチメートルの位置にあり、その最高部の縁は段差約一センチメートル幅三センチメートルの帯状となっている。金隠し部から西側に五センチメートルの間隔(金隠し部の東端からは一一センチメートルになる。)を置いて高さ31.5センチメートルの金属製の水栓(直立したパイプに上下に動かすハンドルが水平に付いている。)が取り付けられている。便器の東端と東側板壁との間は二三センチメートルである。
三 本件犯行現場から領置した証拠物及び採取した指紋、掌紋
1 証拠物
(一) 小便所付近
イ たばこの吸い殻(マイルドセブン三〇四〇)一個これは掃除道具入れ前から三〇センチメートル、東側壁際の床面上である。
ロ 一〇円硬貨一個
これは東側壁から西へ五〇センチメートル、大便所東側仕切板から南へ三五センチメートルの床面上である。
ハ トマトジュースの空缶一本
これは大便所東側仕切板の直前で東側壁から五六センチメートルの床面上である。
(二) 本件大便所内
イ ティッシュ片三片(うち一片に毛髪及び脱糞付着)これは大便器の金隠しの北側前部で金隠しの東端から東へ一〇センチメートル付近(毛髪及び脱糞付着のもの)、金隠しの南側付近に付着及び西側壁と水栓の間である。
ロ 子供用運動靴一足
これは大便器の金隠しの南側で北側壁から七五センチメートルの位置に右片方が北東向きに置かれ、左片方は、右片方の西側に置かれた変形四角形の木製木箱(長さ28.5センチメートル、幅は狭い部分七センチメートル、広い部分23.5センチメートル)の中に南西向きに入れられていた。
ハ たばこの吸い殻五個(マイルドセブン三〇三四、マイルドセブンセレクト、銘柄不明、ショートホープ三〇四五、マイルドセブン)
このうちの最初の三本は、前記木箱の西横の西側壁際に置かれていた直径7.3センチメートル、高さ一三センチメートルの空缶の中である。ショートホープは右空缶の北横に捨てられ、マイルドセブンは北西隅に置かれていた高さ一九センチメートルの扇型白色ホーロー製汚物入れの中である。
ニ 百円硬貨一個
これは便器の北東側の北側壁から一六センチメートル東寄り地点である。
ホ 男物白色半パッチ(脱糞付着)一着、ハンカチ(脱糞付着)一枚、ティッシュ用芯紙三個、綿花一個、ハートカンチョウ空箱一個
いずれも前記白色ホーロー製汚物入れの中である。
ヘ 子供用ピンク色半ズボン、パンツ各一枚、玉子型容器(銀色ハッピーロボカプセル)一個
南西隅の壁の床面より高さ一メートルの位置に長さ二六センチメートルの芳香剤が長さ五〇センチメートルの電気コードでつるされており、前記第二の一の磯野が発見したときには右ピンク色半ズボン、パンツ各一枚がぶら下がっていたが実況見分時には右芳香剤の上にパンツが置かれ、さらにその上に右カプセルが乗せられていた。
2 指紋及び掌紋(指紋七三個、掌紋四〇個)
本件便所出入口の鉄製扉の内外面等から指掌紋二八個、鏡から指紋七個、その付近の壁から掌紋一個、小便器の南端目隠しから指紋一個、掌紋二個、東側壁から掌紋二個、トマトジュースの空缶から指紋九個、掌紋一個、西側タイル壁から指紋七個、掌紋四個、本件大便所の木製片開戸外側から指紋二個、掌紋一個、西側仕切板表側から指紋二個、掌紋二個、同内側から掌紋一個、大便所内西側タイル壁から指掌紋各九個、同北側タイル壁から指紋三個、掌紋六個、東側木製壁から指紋一一個、掌紋五個が採取された。
第三 被害者の身上及び被害に至る状況
<書証番号略>によると、以下の事実を認めることができる。
本件被害者のEは、毛布関係の卸業の会社に勤務する男性夫婦の長女として、昭和五二年一月二五日に出生し、本件被害当時は、大阪府堺市立△△小学校二年生であった。被害者は、母親がさ細なことから夫婦げんかをして家を飛び出したため、昭和五九年六月二〇日から、同市<番地略>に母親及び弟と居住していた。
本件被害当日の昭和五九年六月二九日は、被害者の母親(以下母親という。)は、午前一一時ころに、被害者にスーパーの食料品売場で購入した煮き込み御飯(鳥肉、竹の子、にんじん、刻みのり入り)を食べさせ、同日午後五時ころに、夕食として被害者におにぎり二個、ざるそば一人前その他を食べさせ、同日午後六時ころ、子供二人を連れて一週間前ころから毎日のように通っている前記○○ビル一階のパチンコ店「ジャンボ」に行き、被害者とその弟に小遣銭を渡して同ビル二階のゲームセンターなどで遊ばせ、自分は同店でパチンコをしていた。そして、母親は、同日午後九時ころになって、その二、三〇分前には自分のそばにいた被害者の姿が見当たらないのに気付いたもののいずれ戻って来るだろうと思って別段気にとめずにそのままパチンコを続けていたが、そろそろ帰宅しようと思って自分の腕時計を見ると午後九時一〇分だった。そしてその時下の弟はいたものの被害者の姿が見当たらないことに気付き、被害者を見つけるべく店内を見て回ったが被害者の姿が見付からなかったため、不審に思い、同ビル二階ゲームセンター、同ビル周辺を必死に探し回ったが被害者を発見するに至らなかった。そうこうするうち、同日午後一〇時七分ころ、被害者が担架に乗せられて救急隊員に運ばれているところを発見し、被害者が本件被害に遇ったことを知った。
なお、被害者は、本件被害当日、ピンク色のTシャツ、ピンク色の半ズボンを着用し、白ズック靴をはいていた。
第四 被害者の解剖結果並びに遺留指掌紋、毛髪等についての捜査結果
被告人の当公判廷(第一三回)における供述、証人田村仁司(第一五回、第一七回)及び同角野信弘(第二一回)の当公判廷における各供述、第八回公判調書中の証人杉山静征の供述部分、第一〇回公判調書中の証人若槻龍児の供述部分、<書証番号略>によると、次の事実を認めることができる。
一 被害者の死因等
被害者は、身長一二〇センチメートル、体重二三キログラム、B型(分泌型)の血液型である。
被害者の前頸部の縦七センチメートル、横一四センチメートルの範囲内に皮下及び皮内出血が存在するほか、約0.3センチメートル四方及び約0.3センチメートル×0.2センチメートル大の表皮はく脱がある。右傷害は扼圧傷であって、右側の損傷のほうが強いことからみて被害者の前方から加害者の右手指でもって頸部を強圧または強扼することにより発起されたものと推認され、これにより被害者を窒息死させたものである。死亡推定時間は、解剖終了時の昭和五九年六月三〇日午後零時から約一四ないし一五時間くらい前、すなわち、同月二九日午後九時から午後一〇時までの間と認められる。
二 その他の損傷
被害者の右肩から一一センチメートル下にあたる右上腕部に約1.5センチメートル×1.3センチメートル大、足の付け根から一三センチメートル下にあたる左大腿部の内側に約2.5センチメートル×2センチメートル大の各皮下出血が認められるが、これらは、鈍体による打撲か手指による強圧によって生じた握傷または打撲傷と認められる。また、左下腿前面に約0.5センチメートル×0.5センチメートル及び約1.5センチメートル×1センチメートル大の、踵から九センチメートル上の左下腿後面に約3.5センチメートル×3センチメートル大の各皮下出血があるが、それらはいずれも鈍体による打撲傷と認められる。その他の身体外表部には損傷は認められなかった。
以上の損傷は直接死に影響を及ぼす程度のものとは認められない。
三 外陰部及び腟の状況
処女膜周囲及び腟口部粘膜に粘膜下出血がみられ、外陰部周辺に出血痕が付着している。処女膜は四時、六時及び九時の方向に破爪が認められる。腟内容物を検査したところ、その中に多数の精子を認め、血液型はB型の分泌型であった。なお、外陰部に毛髪五本が付着し、腟内に毛髪一本が存在していた。
四 その他の状況
被害者の胃内には、キャベツ、米飯、シイタケ、ノリ、コンニャク、山菜、竹の子片等約一〇〇グラムが存在していた。
被害者の臀部右側一面に脱糞が薄く付着し、臀部及び肛門部には毛髪各一本が付着していた。
大腸及び直腸には少量の軟便が存在していたが、膀胱内は空虚であった。
五 遺留指掌紋、毛髪等の鑑定結果
1 毛髪について
腟内に存在していた毛髪一本は陰毛でその血液型はA型であった。その余の七本のうち一本は人頭毛であり、他の六本はいずれも陰毛であった。右七本のうち六本からはA型の血液型が得られた(一本については資料不足のため明確な判定が得られなかった。)。陰毛にはいずれも毛根部が残っている抜去毛であるが、人頭毛は切断毛である。腟内に存在していた陰毛一本及びその余の陰毛六本中の二本には一応毛垢と推量される付着物が認められたものの、それが毛垢であるか否かについての化学的検査は行われておらず、毛垢であると断定できない。
2 被害者のピンク色半ズボン、ピンク色半袖Tシャツ及びパンツについて
右につき精液確認検査を行ったがいずれからも精液付着の証明は得られなかった。
3 臀部付着の糞便について
右につき食物残査を調べたが、微量のうえ細か過ぎて明確にしえなかった。また、血液型についても明確な判定を得るに至らなかった。
4 指掌紋について
前記第二の三の2記載のように本件便所一帯から指紋七三個、掌紋四〇個を採取した。本件大便所内の東側木製板張りの壁から採取した指紋のうち一個(床面から高さ1.24メートル、東側仕切板の内側から北側へ0.53メートルの地点から採取したもの)が被告人の左手拇指と一致し、右東側木製壁から採取した掌紋(床面から高さ1.28メートル、東側仕切板の内側から北側へ0.35メートルの地点から採取したもの)が被告人の右手掌紋と一致した。
右採取した指掌紋の中には、被害者の指掌紋と一致するものはなかった。
六 本件犯行の被疑者として被告人が割り出された経過
大阪府警察本部刑事部捜査一課(以下、府警捜査一課という。)は、被害者の解剖結果から、被害者は昭和五九年六月二九日午後九時五〇分ころ、手指等により頸部を扼圧されて殺害されたものであり、被害者の処女膜には時計の針の四時、六時及び九時の位置に裂傷があるうえに腟内から精液が採取されたことから、本件を強姦殺人事件と認め、被害者の血液型がB型(分泌型)であるのに対し、被害者の陰部等に付着していた毛髪七本及び腟内から採取された毛髪一本についての血液型の鑑定結果から鑑定可能な七本についてはいずれもA型であることが判明したので、本件の犯人はA型の血液型の者と断定して捜査を進めた。
そして、同年一一月一七日、右大便所東側板張りの壁から採取した中の指掌紋各一個が被告人の左手拇指と右手掌紋と一致することが判明し、右指掌紋が床面から1.24メートルの高さに付着していたことからして同便所を使用するにしては不自然な位置に付着していると思われたことから、被告人を本件犯行の被疑者の一人と考えて身辺捜査を開始した。
身辺捜査を開始して一週間後には、被告人は、大阪府堺市<番地略>に居住していることになっているが、昭和五九年二月二九日に離婚し、その所在は不明であること、同月七日から同年六月一二日までの間及び同年七月一〇日から同月二四日までの間アルコール依存症等の治療のため同府和泉市松尾寺町一一三番地所在の新生会病院に入院していたが稼働先については不明であること、被告人と別れた妻は子供二人を引き取って同府大東市<番地略>に居住して同市内所在の医院に事務員として稼働していること、被告人の実母は同府門真市<番地略>に居住し、清掃婦として稼働していること、被告人の前妻の保管する母子手帳に記載されている被告人の血液型はA型であることが判明した。さらに、同年一一月二四日午後零時五〇分ころ、本件について自分が捜査されていることを聞き及んだ被告人が大阪府堺東警察署に出頭してきて、「自分は知人のところに宿泊しており、自宅には時折帰宅している。本件当日は、午前中新生会病院で点滴を受け、午後三時までは同病院の断酒会に出席し、その後国鉄阪和線を利用していったん帰宅し、午後七時から午後八時三〇分までは堺市大美野三三番地所在の登美丘保健センター内の堺断酒会○○○支部の断酒会に出席し、午後一〇時前には帰宅した。」旨のアリバイを申し立てたので、その裏付け捜査をしたところ、被告人は、本件当日、新生会病院において診療を受けたこと及び午後の同病院における断酒会に出席したことは確認できたものの、夜の堺断酒会○○○支部の断酒会に出席した事実はなかった。
以上の事実から、府警捜査一課は、被告人に対する容疑を強め、昭和六〇年一月一一日午前七時大阪府黒山警察署に被告人の任意同行を求め、同日午後九時五五分までの間、本件について取り調べたうえポリグラフ検査を実施したものの、本件についての自供が得られず、また、ポリグラフ検査についても明確な反応が出なかったことから、翌日また任意出頭するように伝えて、捜査員が、同日午後一〇時二五分に、被告人をその居住する前記<番地略>まで自動車で送って行った。
被告人を自宅まで送って行った捜査員が、被告人の行動を確認するため右自動車内で張り込みをしていたところ、翌月一月一二日午前一時四〇分ころ、被告人が自室のある同棟五階と四階の踊場にある手摺り越しに足元から地上に飛び降りたため、右捜査員は救急車を要請し、被告人を同府同市新金岡町四丁一番七号所在の豊川病院に搬送して行った。
被告人は、右落下により右下腿部骨折、右骨盤骨折、右腓骨々折、右足根骨々折の重傷を負い、同病院において同年六月八日まで入院治療を受けた。そして、被告人は、同年八月一三日から昭和六二年一二月二七日までの間に、同病院の外、前記新生会病院、大阪府和泉市今福町一丁目三番三号所在の泉陽病院、大阪市天王寺区筆ヶ崎町五番五三号所在の大阪赤十字病院に合計四回入退院を繰り返したことから、本件についての被告人の取調べは中断されたままになっていた。
ところが、被告人が昭和六三年七月四日午後零時二分判示犯罪事実に該るAらに対する恐喝未遂の事実で通常逮捕され、同年七月一九日身柄拘束のまま起訴されたことから、府警捜査一課は右身柄拘束を利用して本件につき被告人の取調べを再開し、後記のとおり、被告人は本件犯行について当初否認していたものの自白に転じたことから本件で逮捕勾留し、その後再び否認に転じたものの、検察官は、同年九月一九日、本件で被告人を起訴した。
なお、本件犯行が被告人によってなされたものであることを立証すべき証拠として検察官から取調べ請求がなされているものは、被告人の捜査段階における自白、第三ないし五回公判調書中証人F、第五回公判調書中証人Jの各供述以外は、昭和六〇年一月一一日の時点で既に判明し収集したものばかりであり、また、被告人の右自白中には「秘密の暴露」に当るものも存在しない。
第五 被告人の身上・経歴等
被告人の当公判廷における各供述、<書証番号略>、証人Gの当公判廷における供述、第四回公判調書中の証人Fの供述部分、第九回公判調書中の証人Hの供述部分、<書証番号略>によると次の事実を認めることができる。
一 被告人の身上及び経歴
被告人は、鹿児島県において出生したが、生後二か月ころ実父が死去したため、その後実母が農業を営んでいた男性と再婚し、その養子となり、以後養父及び実母に養育され、昭和三六年三月、同県内の中学校を卒業した。
被告人が中学校を卒業したのを機に、被告人一家は、同年三月下旬、養父の長男が大阪府門真市において、鉄工業財部製作所を経営していたことから同人を頼って来阪し、被告人は同製作所でプレス工として働くようになった。しかし、右義兄の会社が倒産したことなどから、被告人は、昭和三八年夏ころ、家出同然にあてもなく横浜市に行き、たまたま見掛けた中華料理店のコック見習いの募集の広告を見て、応募して右中華料理店でコック見習いとして稼働するようになった。しかし、被告人に中華料理の指導をしてくれていた人が同店を辞めて名古屋市内の中華料理店で働くようになったことから、被告人もこれに同行し、昭和四二年夏から同市内の中華料理店でコックとして働くようになった。そして、昭和四二年一二月五日に婚姻し、同市内のアパートで新婚生活を送るようになり、翌昭和四五年三月二一日に長男Mが生まれたものの無肛門児だったことから妻が家を出て行ってしまった。被告人はこのような不幸な事態に見舞われたことに加えて前記中華料理の手解きをしてくれた人が死亡したことが重なったため仕事の意欲を失ない次第に酒に溺れるようになったことから、昭和四六年春ころ右中華料理店を退職して大阪に戻った。
大阪に戻った被告人は、四か月くらい無為徒食の生活を送っていたが、長男Mを大阪市内の養護施設に預けたうえ、同年八月ころから勤務する店を変えながらも一応中華料理のコックとして稼働し、一時、昭和五〇年一月ころ、かつて大阪市北区梅田所在の中華料理店で一緒に働いていたことのある同僚と中華料理店の共同経営を始めたものの利益分配のことが原因で同人ともめたため約一年で閉店し、その後はまた中華料理のコックとして働くようになった。
その間の昭和四七年三月三日、被告人は前記妻と正式に協議離婚し、同年九月二〇日、前記養護施設で長男Mの担当保母をしていた女性と婚姻し、長男Mを引き取って、大阪市住吉区内に居を構えて家族三人で生活を送るようになり、翌昭和四八年六月一四日に次男Nが生まれた。そして、被告人の家族は、昭和五二年ころからは肩書住居地の大阪府堺市<番地略>で居住するようになった。
ところが、被告人は、再婚後しばらくしてホステスなどの女性と次々と交際するようになったり、昭和五四年ころからは給料をほとんど妻に渡さずかえって妻名義でサラ金から借金しその返済を妻に負わせたり、ほとんど自宅に寄りつかず四、五か月に一回帰宅するといった放縦な生活を送るようになったうえ、アルコール中毒にり患してその治療のため入退院を繰り返すようになったため、妻に愛想づかしをされ、署名押印をした離婚届を妻に渡す破目になった。
被告人の妻は、被告人が昭和五九年二月七日にアルコール依存症等の治療のため四度目の入院を前記新生会病院にしたことから、被告人との離婚を決意し、右離婚届に署名押印し、同月二九日、被告人に無断で離婚届を提出し、子供二人と共に右住居を出て、大阪府大東市内の文化住宅に移り住み、同市内の医院で事務員として働きながら、子供二人を養育するようになった。
二 被告人の病歴及び入院歴
被告人は、前記のように酒に溺れるようになって以来一応コックとして稼働していたものの、多量飲酒の習慣はやまず、昭和五六年五月ころ、アルコール依存症にり患し、大阪府堺市所在の金岡中央病院に入院することになり、三か月間の入院治療を受けて退院し、その後は大阪を離れて、北海道、九州、四国等の中華料理店を転々とした後、昭和五七年六月ころ、再び大阪に戻った。そして、被告人は、Oが大阪府堺市<番地略>で経営していた中国料理「北京堺東店」に行き就職を依頼したところ、同人が他の店を紹介してくれたのでその店などで中華料理のコックとして働いていたものの昭和五八年二月に再びアルコール依存症で同市内の植田病院に入院することとなり、同年四月に同病院を退院したが、その後わずか一か月でアルコール依存症で前記金岡中央病院に同年九月まで入院した。右退院後、被告人は、右Oが新たに紹介してくれた中華料理店でコック長として働くようになったが、働くのが嫌になりわずか二か月働いただけで同年一二月に同店を辞め、その後は仕事に就くことなく同年三月三〇日から受給している生活保護費をもらいながら酒びたりの生活を送るようになってアルコール依存症が悪化し、前記新生会病院に、昭和五九年二月七日から同年六月一二日までと同年七月一〇日から同年七月二四日までの間入院した。本件はこの間の同年六月二九日に発生したものである。
なお、被告人は、同年六月一五日から右新生会病院に通院する傍ら毎週金曜日は同病院主催の断酒会に出席したり、同年七月二日から毎週火曜日は大阪市阿倍野区内所在の小杉クリニック医院に通院しながら同病院主催の断酒会に出席したり、前記の堺断酒会○○○支部の断酒会などに出席したりして被告人なりに断酒の努力を続けていた。
被告人は、昭和五九年七月二四日、新生会病院を退院した後、同年一〇月ころから大阪市天王寺区内でガードマンなどのアルバイトをしていたが、翌昭和六〇年一月一一日、前記のように大阪府黒山警察署に任意同行を求められ、本件につき事情聴取されたものである。その後被告人が骨盤骨折等の治療のため入退院を繰り返した後本件で起訴されるに至ったことは前記のとおりである。
三 被告人の身体的特徴
被告人は、身長一五六センチメートル、体重七二、三キログラム(昭和五九年六月二九日ころ)、血液型はA型の非分泌型である。被告人の陰茎は不完全包茎で軽度埋没陰茎であって、日本人成人男子の平均値を若干下回る大きさのものである。
四 被告人の女性関係
被告人は、中学三年生の時、女性教師と初体験を持ち、昭和四四年、被告人が二三歳の時、当時二一歳の女性と結婚し、同女とは昭和四六年春ころ事実上離婚した。被告人は、右妻が長男を出産するため帰郷していたとき、当時被告人が働いていた中華料理店に客として出入りしていた当時二〇歳くらいの女性と懇ろとなり昭和四六年二月ころまでその関係が続いた。そして、被告人は、最初の妻とは昭和四七年三月三日に正式に離婚し、同年九月二〇日二人目の妻と再婚し、昭和五九年二月二九日、同女とも離婚した。被告人は二度目の離婚をした後、三人の女性と継続的に肉体関係を持っている。
一人は、同年七月初めころ、被告人が堺東社会福祉事務所に生活保護費をもらいに行った際に知り合った当時四五歳くらいの寡婦で、同女とは同年八月ころから堺市内の同女方のアパートで同棲するようになったが、同年一〇月上旬ころには別れた。二人目は、被告人が毎週木曜日に通っていた堺市内の浜寺病院主催の断酒会で同年九月ころ知り合ったF(当時四二歳、後記のとおり本件で証人として出廷している)で、同女とは同年一二月ころから昭和六〇年八月中旬ころまで関係が続いた。三人目は、同じ団地に居住していたことからかねてから顔見知りのA(当時三六歳、判示脅迫の被害者)であり、同女とは同年六月末ころから関係を持ち始め、昭和六二年一二月末ころにいったんその関係が切れたが、翌昭和六三年三月初めころその関係が復活し、同年七月五日、同女らに対する前記恐喝未遂の事実で逮捕されるまでその関係が続いた。
被告人が右女性らと肉体関係を持った場所は、ホテルか被告人の自宅かあるいは相手の女性の家のベッドあるいは布団の上であった。また、その体位も、被告人が骨盤骨折等の治療を受けて退院した昭和六〇年六月八日から約二か月間は腰痛のため女性上位で関係をもったもののそれ以外は正常位で関係をもっていた。
被告人の前妻Gの当公判廷における供述によると、被告人はスポーツ新聞をよく読んでいたが、わいせつ写真誌などの類の本を読んでいるのを見たこともないし、そのような物を自宅に置いてあるのを見たこともない旨述べており、昭和六三年八月二九日、後記捜査段階における自供によると本件当時被告人が被害者に与えようとした「飾り物」の差押えをするために被告人方の捜索がなされたもののその際に、被告人方からわいせつ誌をはじめその他特異な性的欲求を思わせるようなものが出てきた形跡はない。
もっとも、被告人が出入りしていた喫茶店「円」の経営者である証人Hは、当公判廷において、被告人の同喫茶店における話し振りから被告人は、当時肉体関係のあったAの娘のI(昭和五〇年九月二二日生)に異常な性的関心を抱いていたかのように供述しているが、同供述によると同喫茶店では同証人を交じえてしばしばわい談や冗談を言っていたというのであるから、右にいうところも被告人流の冗談として話されたものとも考えられるうえ、もし真実被告人が右Iに性的邪心を抱いていたならば、その母親の面前でかようなことを公言するはずがないと思われ、右Iの捜査段階における供述によると同女自身被告人から性的ないたずらをされたことはない旨述べていることから考えると、被告人が右Iに対し異常な性的関心を抱いていたものとは認められない。
以上の事実によると、被告人が本件までに相手としてきていた女性はすべて成人であって少女や幼女はなく、性的交渉の態様も異常ではなく、性的異常ことに年少の女性に性的欲求を抱いていたものとは認められない。
五 被告人の本件当日の行動
被告人は、本件当日の昭和五九年六月二九日は金曜日であったことから、午前中は前記新生会病院に行き、同病院の天羽裕二医師(当時)からかねてよりり患していた腰痛等についてビタミン剤等の点滴注射をしてもらうなどして治療を受け、午後一時から三時までの間、同病院主催の断酒会に出席した後、同病院の送迎バスを利用して国鉄(当時)阪和線和泉府中駅まで行き、同線堺市駅まで出た。そして、被告人は、同日午後六時三〇分から午後八時三〇分までの間に堺市大美野三三番地所在の登美丘保険センターで開催される前記堺断酒会○○○支部の例会に出席しなかったことは、一応証拠上明らかである。しかし、本件発生時刻とされている午後九時三〇分ころ前後の被告人のアリバイをうかがわせる証拠は被告人の供述しかなく、逆に、被告人が本件犯行時刻ころ、本件犯行現場にいたことを認めるべき証拠は被告人の捜査段階における自白以外にはない。
第六 被告人の取調べ及び供述状況
弁護人及び被告人は、検察官から本件公訴事実を証明するための証拠として請求された被告人の司法警察職員に対する供述調書一五通(<書証番号略>)中、二通(<書証番号略>)を除く一二通については任意性を欠き、一通(<書証番号略>)については被告人の署名押(指)印を欠くからいずれも証拠能力はない旨主張し、当裁判所は、第二七回公判において、簡単な理由を付したうえで、その任意性の有無についての判断を示したところであるが、後記のとおり本判決において今一度より詳細にその点についての当裁判所の見解を示すこととする。また、弁護人は、たとえ任意性があるとして証拠能力が認められるものがあるとしても、その供述の信用性については争う旨主張する。そこでこれらの点について検討する前提としてまず捜査官による被告人の取調べ及び供述状況を明らかにしておく。
被告人の当公判廷における供述(第一三回、第一四回、第二二回公判、第二三回公判、第二五回、第二六回各公判)、証人田村仁司(第一五回ないし第一七回公判)及び同角野信弘(第一七回公判)の当公判廷における各供述、<書証番号略>によると、以下の事実を認めることができる。
一 取調べ及び供述状況
被告人は、昭和六三年(以下、月日のみを記載したものは同年の出来事である。)七月四日、前記恐喝未遂(判示脅迫)で通常逮捕され、同月一九日、身柄拘束のまま同罪で大阪地方裁判所堺支部に起訴された。
府警捜査一課の巡査部長田村仁司及び同角野信弘の両名は、右身柄拘束状態を利用して同月二一日から被告人を本件の殺人、強姦致死の各罪の被疑者として大阪府堺東警察署の二階の調室において取調べを開始し、以後、別紙被告人の取調べ及び供述状況(以下、別紙という。)記載のとおり、警察官及び検察官は、九月一九日本件が同裁判所同支部に起訴される前日までの間、八月一四日及び同月二一日の両日を除き、連日同署調室において取り調べ、その間、司法警察職員に対する供述調書(以下、員面あるいは員面調書ともいう。)が一九通(<書証番号略>)及び検察官に対する供述調書(以下、検面調書ということもある。)五通(<書証番号略>)が作成された。なお、七月二八日から、かつて昭和六〇年一月一一日大阪府黒山警察署において本件について被告人の取り調べに当たった府警捜査一課の松木田義親巡査部長も被告人の取調べに田村巡査部長の補助者として加わるようになった。
被告人は、八月二二日までの三三日間は一貫して本件犯行を否認していたが、同月二三日に至り、ようやく被害者を姦淫し、姦淫を終わった後自分の不注意で被害者を仰向けに転倒させたために死亡させた旨の犯行の一部を認めるごく概括的な供述をなすに至り、その旨を記載した同日付けの員面調書が作成された(同日付け司法警察職員に対する供述調書。<書証番号略>)。次いで、同月二五日には被害者を姦淫する際、被害者が痛がって声を出して暴れるのでその首を右手で締めたところ、被害者がグッタリして動かなくなった。被害者の首を締めている最中に射精した旨の概括的な供述をなし(同日付け員面。<書証番号略>)、翌二六日にも右供述を維持し、本件犯行に至るごく簡単な経緯を供述していたが(同日付け員面。<書証番号略>)、その後、再び否認に転じた。しかし、府警捜査一課は、概括的ながらも本件についての被告人の自供が得られたことから、同月二九日午後五時三〇分、「被疑者は昭和五九年六月二九日午後九時三〇分ころ、大阪府堺市<番地略>○○ビル南側路上において、同ビル地下へ走って行くE(当時七歳)を認めるや、同ビル地下男子共同便所大便所内まで追いかけ、にわかに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようと決意し、陰部をもてあそぶなどして無理やり抱き抱え、姦淫行為に及んだところ、同女が「嫌や」とか「痛い痛い」と言って暴れ出したので、口を塞ぐ等の暴行を加え、その反抗を抑圧したが、更に同女が暴れるため自己の犯行が露見することをおそれ、殺意をもって右手で頸部を締め姦淫の目的を遂げその場で右扼頸により同女を窒息死させて殺害したものである。」との被疑事実で被告人を通常逮捕した。そして、引き続き行われた司法警察職員に対する弁解録取手続において、被告人は、「読んでもらったとおり私は昭和五九年六月二九日午後九時半ころ、ジャンボパチンコ店地下一階男子便所内で女の子を強姦したところ、あばれ出したので首をしめ、女の子がグッタリしたので、その場に寝かせて逃げました。」旨述べ右被疑事実を認めた。
なお、府警捜査一課は、同日右堺東署の三階会議室に捜査本部を設置し、同課の瀬戸口正行警部を班長とし、前記田村、角野、松木田の三名の外、上岡貞英警部補、森幸一巡査部長、石田哲也巡査ら合計八名の警察官に本件の捜査に当たらせた。被告人の取調べには、前記田村巡査部長が主任となり、前記角野及び松木田の両巡査部長がその補助者となって当たった。
逮捕後の被告人の警察官に対する供述状況は以下のとおりである。
すなわち、八月三〇日は、別紙記載のとおり、午前一回、午後二回、時間にして合計六時間一四分間(右の時間は、別紙記載の取調べのために出ていた時間から留置場から調室まで一往復する時間と取調べ着手前及び終了後の若干の時間とを最大限一〇分とみて、三往復に要する三〇分を差し引いたものである。以下取り調べ時間を記載するのはこの例による。)取り調べられ、一三項、二一枚からなる調書(<書証番号略>)が作成されているが、右調書は、一二項までは被告人の身上経歴が詳細に記載されているが、犯行状況は最後の一三項の一枚半(一五行)に「逮捕状に書いてある被疑事実のとおり、私は昭和五九年六月二九日午後九時三〇分ころ○○ビル地下大便所内で小学二、三年生位の女の子が着ていた半ズボンやパンツ等を脱がせ女の子の性器を手で触ったり自分の陰茎を当てこする等したのち、便器の金隠し付近に腰掛けて女の子を私の方に向かせて太ももの上にのせ両足を開かせ強姦しようとしたのですが暴れたので人に見つかると思い右手で女の子の首を押すようにして絞めていたところグッタリ動かなくなったので性器内に射精後、女の子を便器の奥に寝かせ脈をとってみましたが脈がなく死んだと思い大便所から逃げたのですが詳しいことは後日話します。」旨のごく概略的な記載があるに過ぎない。
その後九月二日までの三日間は調書は作成されていない。九月三日から同月一八日までの間、同月一〇日(同日午後一時五分から五時五五分までは検察官による取調べ)、同月一二日、同月一四日の三日間を除き、各日付けの員面が作成されているところ(<書証番号略>)、そのうち犯行の自供調書は、同月三日(<書証番号略>)、同月四日(<書証番号略>)、同月六日、(<書証番号略>)の各日付けの三通だけであり、同月八日(<書証番号略>)、同月九日(<書証番号略>)、同月一一日(<書証番号略>)、の各日付けの調書は、その実質は否認調書であり、同月一三日以降の調書は完全否認調書である。
右自供調書のうち、同月三日付け及び同月四日付けの各調書は、それぞれ一九枚と一八枚からなるいずれも大部のものであるが、犯行を認めた部分は前者はわずか二枚半後者はわずか二枚に概略的に認めた記載があるに過ぎず、その余はすべて被告人の身上経歴についての記載である。殊に同月四日付けの犯行に関する記載部分は、大略「八月三日の検察官による弁解録取手続や裁判官の勾留質問では、犯行時刻を午後九時三〇分ではなく午後五時三〇分ころと述べたが、真実は午後九時三〇分ころに間違いない。犯行時刻を右のように夕方と言ったのは、そのような時刻に女の子を強姦して首を絞めたと言えば、私がいたずらした女の子と本件被害者とは別の女の子になり、結局、本件犯行の犯人は私ではないということになるからです。そして、このようにうそを言ったのは死刑になるのが恐かったからです。しかし、うそはいつまでも通用するはずがなく、また、私は被害者の女の子に朝晩手を合わせていますがうその話をして手を合わせるのは本心から謝っていないことになると気付いたことなどからまた本当のことを話す気持ちになったのです。」というものて、具体的に犯行状況について述べたものではない。
同月六日付けの調書(<書証番号略>)は、一六枚からなるものであるが、犯行直前の被告人の行動、犯行の動機、・犯行状況、犯行後から翌日までの行動について述べ、末尾に「私はこのような事件を起こしてしまった以上は女の子に手を合わせてやり心の底から謝る気持ちにならなければならないと考えたことや自分のやった事件はたとえ死刑になってでもいいから真実を話さなければならないと考えたことから自分から進んで話す気持ちになり真実を話したのです。」旨の記載があるだけである。
同月八日付け調書(<書証番号略>)は、一六枚六項からなるもので、五項までは、被告人と肉体関係のあった女性二名についての供述であり、犯行については最後の六項に「今回起こした事件の時、女の子がグッタリとなって、私の左肩付近に上半身や顔等をもたれるようにして暴れないようになったことから、両手で女の子の尻を自分の陰茎の方に引き寄せると私の陰茎がヌルッとした感じがしたと共に性器の中に入り、温かさを陰茎の先に感じて射精したことは間違いありません。」旨記載されているだけであるが、右を読み聞かせたところ、被告人は「私が話したとおりの内容ですが事件を起こしていないような気がしますので署名等できません」旨申し立て署名指印を拒否した。
同月九日付け調書(<書証番号略>)は一一枚からなるものであるが、「私は逮捕後から九月七日まで女の子を強姦したり殺したりしたように話してきましたが、福本弁護士や瀬戸弁護士に相談しているうち自分は事件を起こしていないと考えるようになりました。今まで話してきた本件犯行状況はすべて私の空想で話していたことであります。私が検察官の弁解録取手続のときと勾留質問のときに、強姦した事実を認めたのは自分自身の印象をよく見てもらうためであったからで、本件犯行時刻ころは自宅にいたように記憶しているので事件は起こしていないと思います。私は前回までの調書で逮捕される前から留置場の中で毎晩手を合わせていると話したのは、殺された女の子がかわいそうと思って真心をこめて、おっちゃんがやったんではない、と言いながら手を合わせているからです。」旨の否認の記載がある。
そして、同月一一日付けの調書(<書証番号略>)は、二八枚(字数にして九七九〇字、項目数一七)と被告人作成の図面一枚からなるかなり大部のものであるが(同日の取調べ時間は約四時間二〇分)、右調書は、犯行に至るまでの犯行当日の行動、犯行現場の状況、犯行の動機、犯行状況、犯行後の状況が一六項二七枚にわたって詳細に被告人自身が供述したように記載されているが、最後の一七項(調書一枚)には、「私はただ今まで話したとおり八月二三日から九月六日までの調書ではこのように女の子を地下大便所内で強姦し、殺したのは私であり真実を話してきたように話しておりましたが、このようなことはしておらずすべて空想で話したものです。私は九月七日ころから事件を起こした犯人は私ではなく他に殺した犯人がいると思うようになりました。事件当日の私の行動は九月九日に話したのが本当の行動であり事件は起こしていません。」旨の否認の記載が付け加えられている。
次に、検察官の取調べ状況をみるに、検察官は九月六日に初めて約四時間一五分にわたって被告人を取り調べているが、同日は調書を作成するに至っていない。そして、同月一〇日付け、同日一一日付け、同月一三日付け、同月一七日(二通)の各調書(<書証番号略>)が作成されているところ、いずれも問答形式のもので、その内容は否認及び弁解を記載したものとなっており、犯行を自白したものはない。
ところで、被告人は、七月二二日、森岡一郎弁護士を前記恐喝未遂事件の弁護人として選任していたが、八月二五日、同弁護人を解任し、その後、被告人の実母から依頼された福本弁護士は、九月三日、被告人と接見し、被告人から福本弁護士と瀬戸弁護士の連名の弁護人選任届に署名指印をもらい、右恐喝未遂事件の弁護人となった。そして、福本弁護人は、同月六日、同月八日、同月一二日、同月一四日及び同月一七日に被告人と接見し、瀬戸弁護人は、同月五日、同月一三日及び同月一七日に接見している。
第七 当裁判所の検証
前記のとおり、被告人の捜査段階における自白の核心は要するに被告人は本件大便所内で下半身を露出して陶器製和式便所の金隠しに尻を乗せて後向きに坐り、嫌がり暴れて抵抗する被害者を抱え上げて膝の上に股を広げて対面して坐らせて姦淫して射精し頸部を絞扼して殺害したというものである。姦淫するに際し、被害者が抵抗して暴れたことは男性用大便所内という異常な場所であること、被害者の年齢、処女膜が三か所破瓜していることから間違いないものと考えられる。本件大便所で右供述のように被害者を姦淫して射精するということは尋常ではなく、果たして右供述のような事態が生じるかどうかの点は被告人の右供述の信用性だけでなく、その他の証拠の信用性を考えるうえで重要なことであり、ひいては本件公訴事実の成否にも深くかかわるものであると考えたので、この点の資料を得るため、平成二年六月一四日本件大便所で検証を実施した。そして当裁判所の検証調書によると、検証の方法及び結果はつぎのとおりであった。
検証のために、被害者の模擬人体(重量二三キログラム)を準備し、実験者七名(裁判官、検察官、弁護人ら)が被告人の右供述に沿って行ない、模擬人体の抱き上げ行為着手時から時間の経過によって実験者の身体に感じる感覚の変化を各人について測定したものである。検証の補助者が、実験者の膝上の模擬人体を前後左右の水平面に振幅約一〇センチメートル、一秒間に約一回の見当で揺り動かした。
その結果、実験者が模擬人体の抱き上げに着手してから一分一五秒経過時点で既に全員が腰部尻部に痛み、かなりの痛み、凄い痛みを感じる旨訴え、二分経過時点で足のしびれ、膝のしびれ、発汗を訴える者が出、その後は時間の経過にしたがって右痛覚等の持続ないし増大が進みひたすら痛覚等を我慢して耐えているという状況になっていることが認められた。
第八 被告人の本件当時の腰部の状況
押収してある新生会病院作成の診療録(<書証番号略>)によると、被告人は、昭和五九年二月八日から新生会病院において慢性肝炎、アルコール依存症、腰痛症等の治療を受けており、四か月半余り経た本件当日の同年六月二九日には午前中にさらに「腰部打撲」の診断も加わってインテバン軟膏2.5グラムとヘルペックス四〇〇グラムを投与されていることが認められる。証人天羽裕二の当公判廷における供述によると、鎮痛効果としてはヘルペックスよりもインテバン軟膏の方が強力であることが認められるのであり、当日は被告人はかなりの程度の腰痛があったものと認められる。この点は、被告人の捜査段階における自供の信用性等を考えるうえで検証の結果と併せて考慮されるべきものである。
第九 当裁判所の判断
以上見てきたように、本件被害者は何者かによって強姦されて殺害されたかその逆の場合であるかのいずれかであることは明らかである。そして、本件と被告人とを直接結びつけるものとしては被告人の捜査段階における自白とFの被告人から本件犯行を打ち明けられ被告人と一緒に本件便所へ行って花や菓子の供物を供えた旨の供述があるだけである。被害者の陰部等に残された毛髪と被告人の陰毛の血液型の関係や類似性、被害者の腟内液と被告人の血液型との関係、本件大便所に被告人の指掌紋が遺留されていることは被告人が本件の犯人であることと矛盾しないというにとどまり、被告人と犯行とを積極的に結びつけるものではない。結局、被告人の捜査段階における自白とFの右供述の信用性の有無に公訴事実の成否がかかっている。そこで以下にこれらの点について検討をすすめることとする。
一 被告人の捜査段階における自白について
被告人の捜査段階における自白のうち、任意性があるものとして取り調べたものの証明力の検討をするわけであるが、任意性が認められないものとして取り調べなかった自白も供述の変遷過程を知る資料として取り調べているので、必要に応じ適宜これらのものについても触れながら検討をすることとする。
1 供述の変遷について
前記第六で述べたように、被告人は当初一貫して本件犯行を否認していたが、三四日間(取調べ実時間一八一時間四分。取調べ時間の計算方法は既に記載したところによる。)にも及ぶ連日にわたる厳しい取調べの末、八月二三日に至りようやく犯行の一部を認め、その後犯行について概括的ながらも全体について自白をしたものの間もなく再び否認に転じ、以後公判廷において一貫して否認している。検察官の取調べに対しても否認を続けているので、結局被告人の自白は警察官に対する一時期のものがあるだけである。かように、被告人の供述は全体としても大きく変遷しており、検察官に対しては否認しているのに警察官にだけ自白している時期があるということ自体自白の信用性を疑わせる資料になるものと考えられる。のみならず、かような供述の変遷の流れの中でさらに捜査官において被告人が本件について自白を維持していたとして自白を記載している九月六日付け調書までの各自白調書中にも看過できない変遷があり、これは右供述の変遷の流れの中で生じたことであるので、この点をも併せて考えるべきことであるので、これらのうちいくつかの点について検討する。
(一) 被害者殺害の契機とその態様について
八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)では、「私は便器に座り、被害者を膝の上に両足を広げて座らせた。
そして性交しようとしたが、陰茎はまだ完全にぼっ起していなかったことなどのため、女の子は痛がったり苦しんだりはしなかった。射精した時に、女の子の尻を引いていた左手に力が強く加わり女の子の腟の奥の方に私の陰茎が入ったのか、女の子が声を出したように思い、私は右手で女の子の顔が顎の辺りを突いたような記憶がある。性交が終わった後、私は便器から立ちあがろうとした時女の子と立ち上がる動きが一致せず、女の子は図のように(便所の奥の方に仰向けに)倒れてしまった。女の子はこの時全然動かなかったのでびっくりして私は女の子をそのままに放ったらかしにして逃げた。」旨首を絞めて殺害したのではなくあたかも被告人の不注意で死亡させたかのように供述していたところ、その二日後の同月二五日付け員面調書(<書証番号略>)では、「私は女の子の手を強く引いて私の膝に乗せた。陰茎が少し入ったとき、女の子は痛がり、膝の上で首を左右に振り両手で私の胸の辺りを叩くなどして暴れた。暴れたので、人がやってきては大変なことになると思いとっさに女の子の口をふさいだが、なおも声を出すので、右手の親指と人差指で女の子ののどのところを挟むようにして絞め、さらに左手を尻から背中に移して手前に強く引いた。そして首を絞めているときに射精した。約二〇秒間絞めたところ、女の子はグッタリして私の胸に顔を押しつけるようにして倒れかかった。」旨、被害者が暴れて声を出すので約二〇秒間首を絞めて殺害したというように全く異なる態様で被害者を死亡させたように供述し、九月三日付け員面調書(<書証番号略>)及び、同月六日付け員面調書(<書証番号略>)でもほぼ同旨(約二〇秒間絞めた点を除き)の供述をしている。
このように被害者の殺害の契機及びその態様というきわめて強く印象付けられているはずの事柄について被告人の供述は大きく変遷している。
(二) 姦淫の態様について
八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)では「陰茎が仲々入らなかったので、硬くなった陰茎につばをつけてから女の子の陰部にあてがったまま女の子の尻をグイッと左手で強く引いたところ、ニューと先端が入った。私はもう少し奥の方に入れてやろうと腰を使うと陰茎が抜けてしまうので、仕方なく、右手を添えて抜けないようにしながら腰を二、三回使うと気持ちよくなり射精した。」旨、腰を使ったように供述し、同月二五日付け員面調書(<書証番号略>)では、「陰茎はなかなか大きくならなかったので、それにつばをぬって、陰部に当てこすっていると気持ちがよくなり少し硬くなって少し入ったとき、女の子は痛がり暴れたので、声を出させないように右手の平で口を塞いだがそれでも声を出すので女の子ののどのところを右手の親指と人差指で挟むようにして絞め、さらに絞めやすいようにして左手を尻から背中に移して手前に強く引いた。そして約二〇秒間首を絞めているときに射精した。」旨の供述に変わり、九月三日付け及び同月六日付け各員面調書(<書証番号略>)では、「無理やり陰茎をそう入しようとしたところ、女の子が声を出したり暴れたりするので、右手で口をふさいだり、首に当てて絞めていると、女の子はグッタリとした。その時女の子の尻を自分の方に引き寄せたところ、陰茎が入り同時に射精した。」旨、さらに供述が変わっている。すなわちはじめは陰茎の先端が入ったので右手をそえてはずれないようにしながら腰を二、三回使うと射精したとあって被害者が痛がったり暴れたりした様子は述べられていないのが、その後陰茎を入れると被害者が痛がり暴れたこと、口をふさいだり首を絞めて被害者を手前に引き、さらに首を約二〇秒間位絞めているときに射精したことが述べられているが、腰を動かしたことは述べておらず、これがさらに、陰茎を入れようとしたがまだ入らないときに被害者が痛がって暴れたこと、首を絞めていると被害者はぐったりしたので引き寄せると陰茎が入り、入ると同時に射精したことが述べられているが二〇秒間も首を絞めているときに射精したとか腰を動かしたことは述べられていない。陰茎を入れた時期、被害者が痛がって暴れたかどうか、首をどれくらいの時間絞めたか、腰を動かしたかどうか、陰茎の挿入と射精の時期など、姦淫及び殺害行為の最も肝要で実行者が注意を集中して被害者の動きに対応して行動している状態について、真実経験したのであればかように内容が変遷するはずがないものと思われる、ことに八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)では腰を二、三回使った旨供述しているけれども、前記第七記載の検証によると体重二三キログラムの被害者を膝の上に乗せて腰を使うという形で腰を動かすことはまず不可能である。あえて行なうと金隠しから転落するなどして別な経過をたどるはずであるものと考えられるのにさような供述もない。かようにみると右の供述は虚偽の事実が述べられているものと見るほかはないのである。
かように現実性に欠ける虚偽の事実を含みかつ姦淫及び殺人の実行行為の重要な点についての供述が大きく変遷している。
(三) 被告人のズボン等の脱ぎ方について
八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)では「自分はズボンとパンツを足元まで下げた」旨供述し、同月二五日付け員面調書(<書証番号略>)では「足元まで脱いでいたズボンをはき、急いで便所を出た。」旨供述し、パンツについては触れていない。そして、九月三日付け員面調書(<書証番号略>)では、「ズボンを脱いで下半身裸になった。」旨供述し、パンツについては触れておらず、ズボンは完全に脱いだかのような内容になっているところ、同月六日付け員面調書(<書証番号略>)では、「自分のズボンやパンツを左足だけ外して脱いだ」旨の供述をしている。本件大便所のような狭い異常な場所で便器の金隠しの上に尻を乗せている窮屈な姿勢で姦淫をする場合にはズボンやパンツをどのように処置して行なったかという強く印象に残っていて然るべき事柄について右のように供述が変遷している。
(四) 本件大便所内における被害者の行動について
八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)では、被害者は被告人から二度にわたり硬貨をもらうと、「昼間のおっちゃんと同じことをするの」と言って自分から半ズボンの前チャックを下ろそうとしたうえ、被告人の言うなりになって被告人のわいせつ行為に応じて、さらにさしたる抵抗も見せず、被告人から姦淫されている旨供述しているが、同月二五日付け員面調書(<書証番号略>)では、「女の子は私がズボンを脱いで下半身裸になっていたのに驚いて「嫌や」と言ったが、私は女の子の手を強く引いて無理矢理に私の膝の上に乗せた。」旨被害者の抵抗と無理に膝の上へ乗せたことを供述しているが、九月三日付け員面調書(<書証番号略>)では、再び被害者が被告人のわいせつ行為や被告人の膝に乗せられることに抵抗した様子は述べられておらず、同月六日付け員面調書(<書証番号略>)でも、「いたずらしてやろうと悪い気を起こし、女の子の太もも付近を手で触ったが女の子は嫌な顔もしなかった。そして女の子が騒ぎ立てないようにするため硬貨を渡した。その後被害者は被告人に言われるままに行動し、おとなしく被告人の膝の上にまたがった」旨の供述になっている。
このように被害者が抵抗したか否か、無理に膝の上に乗せたか否かの点についての供述が大きく変遷している。
(五) 犯行直後の被告人の行動について
八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)では、「性交が終わった後、私は便器から立ち上がろうとした時、女の子と立ち上がる動きが一致せず、女の子は図のように(便所の奥の方に仰向けに)倒れてしまったが、この時女の子は全然動かなかったのでびっくりして女の子をそのまま放ったらかしにして逃げた。」旨供述し、同月二五日付け員面調書(<書証番号略>)では、「グッタリなった女の子の姿を見た私は急に恐ろしくなり、女の子の首を右腕で尻の辺りを左手で抱えるようにして、便所の奥の方に置いた。女の子は仰向けの格好で目は少しだけ開いていたように思うが、心配になった私は、女の子の右手首か左手首だったか忘れたが手に取って脈を計ると全然脈がなかったので、殺してしまったと思い急に恐ろしくなって足元まで脱いでいたズボンをはき、急いで便所を出た。」旨供述し、さらに九月三日付け員面調書(<書証番号略>)では、「女の子は私の左肩付近に顔を当ててグッタリしていたので、私は大変なことをしたと思い、女の子を便器の奥の方に降ろし、仰向けに寝かせたところ、女の子はグッタリしており、目を開けないのでほほをたたいたり、肩をゆすったものの動かないので死んだのではないかと思い手首の脈を調べたが脈はなく死んだと思い大便所から逃げた。」旨の具体的な供述になり、同月六日付け員面調書(<書証番号略>)もほぼ同旨の供述となっている。
自らの行為によって動かなくなった被害者が目を開いていたかどうかという点や死亡しているかどうかを確認するため頬を叩いたり肩をゆすったり脈をとったりする行為はきわめて異常な体験であるから真実経験したのであれば忘れ難いものと思われるのに大きく変遷している。
(六) 以上のように被害者を姦淫し殺害するという極めて異常な行為及びこれに付随する行為について、真実経験したのであればかように供述が変遷したり虚偽の事実を含む供述になったりすることはないと考えられるのにかような事態が生じているのは、経験していない事実を述べているのではないかとの疑いを生じ、被告人の捜査段階における供述の信用性には疑問がある。
2 被告人の供述調書に記載されている内容の信用性について
被告人の捜査段階における自白には客観的事実に反すると思われる事項が含まれており、看過できないと考えるので以下に述べる。
(一) 「犯行当日の午後八時三、四〇分ころ、以前金を貸していた南海電鉄高野線堺東駅近くの中華料理店・北京の店長であったOから現金一、二万円を返済してもらった後、ビール大瓶三、四本をご馳走になって同店を出た。そして、堺市役所前から南海バスで同日午後九時ころ阪和線堺市駅に出た。」旨の供述(九月四日付け及び同月六日付け各員面調書。<書証番号略>)について
この点について、被告人は当公判廷(第二三回)において、「右Oの経営していた『北京』に行ったのは本件より一か月以上も前の新生会病院に入院中の五月中の昼ころであった。同人を訪ねて行ったのは、所持金が乏しくなったことから、以前同人に貸していた二〇万円を返済してもらうためであった。しかし、Oは手許不如意ということから、銀行の口座に振り込んで返済してもらおうと考え、新しい口座を作るため、一〇〇〇円と私の印鑑を渡したところ、Oは従業員に命じて兵庫相互銀行(当時)堺東支店の普通預金口座通帳を作らせた。そして、その口座番号をOに教えておいた。昭和五九年中にOと会ったのはその一回だけである。」旨供述している。これに対して、Oは、当公判廷及び検察官に対する各供述調書(<書証番号略>)において、「昭和五九年中に被告人が自分の店を訪ねて来たのは一回だけで、まだ完全に夏になっていない時期という記憶があり、時刻は午後八時前後ころと思う。私が取引していた銀行は、兵庫相互銀行(当時)堺東支店であるが、従業員をして被告人名義の同銀行堺東支店の預金通帳を作らせたかどうか記憶が定かではない。」旨供述している。
右Oの検面調書によると、同人の経営していた中華料理店「北京堺東支店」は堺市<番地略>に所在していたこと、宮崎利昭作成の「書類の送付について」題する書面(<書証番号略>)及び被告人作成の名義の普通預金印鑑票(<書証番号略>)によると、昭和五九年五月二四日に株式会社兵庫銀行(当時兵庫相互銀行)堺東支店に被告人名義(住所堺市<番地略>)の普通預金口座が預金一〇〇〇円で開設されていることが認められる。右事実ことに昭和五九年中に被告人とOとが会ったのは一回だけであり銀行の通常の窓口業務の営業時間が午後三時までであることを加えて考えると、被告人の当公判廷における供述のとおり、被告人がO方へ行ったのは本件当日ではなくてそれより前の五月二四日の昼ころであるものと認められる。本件当日右O方へ行った後夜に本件便所へ行って本件犯行に及んだことはあり得ないのであって、被告人の各員面調書の供述部分は真実に反する虚偽のものといわざるを得ない。
(二) 「午後九時三〇分ころ、○○ビル一階にあるパチンコ店ジャンボの裏側通路のところで、Iに似た被害者が私の後方を走って○○ビル地下に行くのが見えた。」旨の供述(八月二三日付け、同月二五日付け、同月二六日付け、同年九月三日付け、同月四日付け、同月六日付け各員面調書。<書証番号略>)について
右によると被告人は自分の後方を走っていった女の子がAの娘のIに思えたというのであるが、Iの検察官に対する供述調書によると、Iは昭和五〇年九月二二日生まれであることが明らかであるところ、被告人がIの母親のAと懇ろになったのは本件の約一年余り後のことであり、それ以前は被告人は、昭和五二、三年ころの同女が二、三歳ころ、母親が同じ××団地に住んでいたことから、同女が母親の自転車に乗っているところを二、三回見かけただけであって、その後六、七年も会っておらず被告人には二、三歳のIのイメージしかないはずであるのに、自分の後方を走って行った女の子が八歳九か月に成長したIと思ったというのも唐突で極めて不自然なことである。被告人の右員面調書記載の供述部分には疑問がある。
(三) 「私は、Iと間違えた本件被害者の女の子に飾り物をあげようと思い、同女が入った男子共同便所の中に入ると、同女は本件大便所の中に立っていた。」旨の供述(前記(二)記載の各員面調書)について
被害者の母親が六月二二日から本件犯行当日の同月二九日まで午後六時ころから被害者らを連れて○○ビル一階のジャンボパチンコ店に行き、自分はパチンコをし、被害者らを二階のゲームセンター等で遊ばせていたこと、同パチンコ店内には共同便所が設置されていることは既に認定したとおりである。そうすると、被害者は、右パチンコ店内に便所があることを十分知っていたはずであるから、便所に行きたいときには同店内のものを使えばよいのであって、わざわざ行き慣れていない地下の便所に行くことや、地下へ行ったとしても約一一メートル北にある女子用共同便所へ行かずに本件便所へ行ったというのも不自然である。被害者の膀胱内は空虚であり、被告人は被害者を見掛けてからすぐ後を追い大便所内にいる同女を発見しているとすると同女は同便所を使用するいとまもなく被告人と接触していることになる。以後被告人がその供述するように同女に対し諸行為に及んでいる相当時間内に同女が尿意を訴えたとか失禁したという形跡がない。かようにみると、同女は本件大便所に入った時点では既に尿がなかったものと考えざるを得ず、被害者は用便のために本件大便所に入ったものでない可能性が高い。そして、八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)で供述するように被害者が同便所内を移動し、被告人が被害者を壁に向って四つ這い状にさせて背後から姦淫しようとして苦心したということがあったとすると本件大便所内の壁等から被害者の指掌紋及び足跡痕があって然るべきであると思われるのにこれらは全く発見されていない。そればかりか、被害者の傷害は頸部のもののほかに右上腕部、左大腿部内側に握傷または打撲傷、左下腿前面と後面に打撲傷がそれぞれ存在するが、この頸部以外の傷害は被告人の述べるような被害者に対する暴行態様すなわち嫌がる被害者を無理に膝の上に坐らせ首を絞めて姦淫したという行為から発生することはあり得ず、他の態様による暴行が加えられた可能性が高い。かようにみると、被害者は他の場所で被告人の供述するのとは異なる態様の暴行等を受けた可能性があることも否定し切れないのである。
被告人が本件大便所内で被害者が立っているのを見たという右員面調書記載の供述部分は信用し難いものである。
(四) 「トイレの扉が約一五センチ開いていたのでトイレの中をのぞいて見たら女の子はトイレの右奥に立っていた。」旨の供述(八月二三日付け、同月二五日付け、九月六日付け各員面調書。<書証番号略>)について
当裁判所の検証調書によると、本件大便所の扉を内側へ一五センチメートル押し開けた状態でのぞいた場合に見えた範囲は、同便所内の北側壁の西端の角から東へ42.2センチメートルの位置までであって、それからさらに右奥(東側)は見ることはできない。大便所内に足と共に体を入れて首を曲げてのぞき込んだ場合には二六センチメートル押し開けた状態で初めて東側壁を見ることができた。体を大便所内に入れないで東側壁を見ることができるのは一五センチメートルよりはるかに広く七二センチメートル押し開けた状態のときである。そして、東側壁側のできるだけ南へ寄った位置に人が立った場合には、五七センチメートル押し開けたところで、右扉とこれを金具でつなげている右側部分との細い透き間からその人物の体のごく一部をかろうじて見ることができた。
以上の事実からすると、開いていた扉の幅に若干の誤差があるとしても右員面調書記載の供述部分には疑問がある。
(五) 「自分が手を貸して女の子のズボン、パンティを脱がし、①印(北側壁と便器との間)のあたりに脱がしたズボン、パンティを置いた。」旨の供述(八月二三日付け員面調書。<書証番号略>)について
前記認定事実によると、半ズボンとパンツは、南西隅の壁、高さ一メートルの位置に長さ二六センチメートルの芳香剤が長さ五〇センチメートルの電気コードでつるされているが、その上にぶら下がるように置いてあったのである。これは、右供述とは明らかに異なる。そして北側壁と便器との間隔は三六センチメートル、南側壁と便器まで四六センチメートル、東側壁と便器まで二三センチメートルで、便所自体狭いうえに足を踏むことができる床面は右のとおりわずかしかないのであり、右供述のとおりであるとするとズボンとパンツは被告人が踏みつけて散ったり被害者の遺体の下になったりする可能性もあり、ズボンとパンツが何故上方の芳香剤の上にあったのか理解できない。被告人の右供述は事実に符合せず、実際に経験しないことを想像で述べた可能性がある。
(六) 「女の子は、私がズボンを脱いで下半身裸になったのに驚いて『嫌や』と言ったが、私は女の子の手を強く引いて私の膝に乗せた。左手で女の子の尻を引き寄せ、右手で陰茎を陰部に当てたが陰茎はなかなか大きくならなかった。そこで、つばを陰茎にぬって、陰部に当てこすっていると気持ちがよくなり少し硬くなって少し入ったとき、女の子は嫌がり、膝の上で首を左右に振り両手で私の胸の辺りをたたくなどして暴れた。そこで、私は女の子の口をふさいだが、なお、声を出すので、右手で親指と人差指で女の子ののどのところを挟むようにして絞め、さらに左手を尻から背中に移して手前に強く引いた。そして首を絞めているときに射精した。約二〇秒間絞めたところ、女の子はグッタリして私の胸に顔を押しつけるようにして倒れかかった。」旨の供述(八月二五日付け員面調書。<書証番号略>)について
まず、人を抱き上げる場合には脇の下に両手を差し入れるのが一般的であると思われるので、本件の場合も被告人が自分の膝の上に被害者を乗せるのに右の方法を取ったものと想定し、右の方法で嫌がって暴れている被害者を抱き上げて膝の上に乗せることができるかどうかの点についてみると、被害者の身長は一二〇センチメートルであるところ、杉山静征作成の鑑定書(<書証番号略>)添付の被害者の写真から右身長を基準に脇の下までの高さを算出すると、約九〇センチメートルであった。そして、便器の金隠しの上に座った場合の床面から膝までの高さは、当裁判所の検証調書によると、35.5センチメートルであったから、被害者を抱き上げて膝の上に乗せるのには、被害者の足の底が最低でも35.5センチメートル以上の高さに抱き上げなければならないこととなる。被害者は嫌がっていたというのであるから、足をばたつかせて自分では足を広げなかったであろうことは十分に考えられるところである。このように暴れる体重二三キログラムの被害者を両手で高さ35.5センチメートル以上の高さに抱き上げ、足を広げさせながら自分の膝の上に乗せることは極めて困難なことであると考えられる。被告人は当日腰痛で治療中でもあったのであるから一層困難であったものと考えられ、もしあえて行なったとすればその困難さやこれを克服した状況について言及されて然るべきであるのに、右供述はこの点に全く言及しておらず、具体性、現実性に乏しい供述であるというほかはない。
また、当裁判所の検証の際における実験者と膝の上の模擬人体との位置関係、膝の上にかかる重量、被告人の陰茎は成人の平均に比しやや短少であり、被害者も七歳の少女であることから考えると、被害者が膝の上で強く暴れて抵抗していたとすると射精に至るまではかなりの時間と労力を要したはずであり、その間陰茎の挿入の繰返しや持続も容易でなかったものと考えられるのに右供述にはその点の具体的状況が全くといってよいほど現われておらず、右供述のような状況は事実に反するものと考えられる。
さらに、前記当裁判所の検証は、被告人が被害者を膝の上に抱き上げ行為に着手してから射精するまでの所要時間を被告人の供述にそって考え、最短時間でも一分一五秒、完了するまでを同一分二〇秒は要するものと想定して行なったものであるが、その結果、抱き上げ行為に着手後一分一五秒経過の時点で既に実験者の全員が、尻、腰部の痛みを訴え、その後、二分経過時点では脚部、腰部等のしびれ、発汗が加わり、その後はこれらの痛覚等が持続ないし増大し、ひたすらこれを我慢し続ける状態になるというのが実験者にほぼ共通の結果であった。右の実験では模擬人体を前後左右に水平に約一〇センチメートルの振幅で約一秒間に一回の見当でゆすって加圧したのであるが、被告人の供述では被害者は強く抵抗して暴れたというのであるから、さらに上下あるいは斜方向の激しい動きによる加重もあったはずであるから、実際の痛覚、しびれ、発汗等は右実験におけるよりも一層大であったものと考えなければならない。のみならず、被告人はかねてよりの腰痛のほか、当日腰部打撲の傷病名も加わって強力な鎮痛剤の投与をを受ける必要がある程度の腰部に痛覚があったものであるから被告人の右供述のとおりであるとすると被告人にとって右痛覚等はさらに一層大きいものであったとみるべきである。そして射精までの所要時間は実際には一分一五秒ないし二〇秒よりは長い可能性が大きいものと考えられるので、痛覚等はさらに増大しこれに耐えて我慢している状態になり、時間が長びくにつれてこれに耐え難い状態に陥っていた可能性が生じることも否定できない。
また本件当時は、地下一階の多数の飲食店等の店舗は営業中であり、これら店舗や一階のパチンコ店の客その他外部の勝手知った通行人等が本件便所を利用するためにこれに出入りするものがかなりあったはずである。
Lの司法警察職員に対する供述調書(<書証番号略>)によると、被害者の遺体発見の午後九時五〇分ころには三名の男性が本件便所を利用していたことが認められる。かような時間帯にかような場所で強姦することは発覚の危険性の高いものであり、それ自体心理的抑制とならざるを得ないものと考えられる。被告人の八月二五日付け員面調書(<書証番号略>)では被害者が「痛い痛い」といって暴れたので人がやって来ては大変なことになると思い、とっさに右手の平で被害者の口をふさぎ、声を出させないようにしたがそれでも声を出すので被害者の首を絞めた。首を絞めているときに射精した旨記載されてあり、射精の少し前から射精の時期にかけて首を絞めてでも被害者の抵抗と犯行の発覚を防がなければならないという強い恐怖心とでもいうべき心理になっていたことを示している。
射精は性的刺激が加重されて一定度に達すると脊髄腰部にある射精中枢が興奮させられて交感神経、下腹神経叢を経て精のう、精管等の諸器管を律動的に収縮させることにより生じるものであり、精神的緊張感、恐怖、不安等の精神的因子の作用は射精中枢の興奮の阻害作用となり遂には不能を生じることがあると一般に説明されているところである。人が出入りし犯行の発覚の現実的可能性の大きい本件便所内の大便所という尋常でない場所で、腰痛で強い投薬を受けていた被告人が便器の金隠しの上に尻部の素肌を置いて抵抗する重量二三キログラムの被害者を抱き上げて膝の上に坐らせ、被害者の重量及び抵抗による加重による痛覚、しびれ、発汗等の強く進行しあるいは耐え難い状態に陥る可能性もある状況下で、被害者の首を絞めるまでして犯行の発覚を強く怖れた被告人が、その供述するような状態で射精するに至ることは著しく困難であるかあるいは不可能とも考えられるのであり、そのような犯行の態様で射精するに至ったものと考えるのは合理的ではない。
かようにみてくると、被告人がその供述するような態様で姦淫し射精したということには強い疑問を生じるのである。
(七) 「約二〇秒間くらい首を絞めていたところ、女の子はぐったりして自分の胸に顔を押しつけるようにして倒れかかった。ぐったりした女の子の姿を見た自分は急に恐ろしくなり、女の子を両手で抱きかかえるようにして便所の奥の方に頭を東側の壁に付けるように仰向けに置いた。足は便器の金隠しの東端くらいにあった。そして、脈を取ったところ全然なかった。」旨の供述(八月二五日付け。<書証番号略>)について
被害者の死因は扼殺による窒息死であるが一般に塞息によって人が死亡する場合には、科学的には二分ないし五分間を要するとされているが、このことからすると、約二〇秒位被害者の首を絞めた結果殺害するに至らしめた旨の供述は科学的にあり得ないことを述べているものというべきである。
また、被告人供述による被害者を大便所内に置いたときの被害者の位置は客観的事実に反するものである。すなわち、被害者の身長は一二〇センチメートルであり、大便所の東西(横)の幅は一〇二センチメートルであることからすると、被害者の頭を東側壁に接して置いた場合でも、被害者の体を真っすぐするためには、なお一八センチメートル不足し、西側の壁につかえて被害者の頭ないし足が折れ曲がった状態になるはずであり、右供述のようにはならないのである。
右事実は、被告人は本件を自ら体験していないことを示唆するものである。
(八) 「犯行後、家に帰り着いたのは午後一〇時ころであった。その後、六月分の断酒会出席に要した交通費の「移送費明細書」の最後の四、五回分を書いて完成させたが、事件のことを思うと手が震えてうまく書けず震えたような文字になったし、誤記は線で消したが、線も乱れていた。そして、焼酎をコップ四、五杯を飲み、睡眠薬を服用して寝た。翌三〇日は朝九時ころ起床したが事件のことが気になって落ち着かなかったので、移送費明細書を持って堺東社会福祉事務所に行った。担当の吉田さんに会ったところ、MAC断酒会に出席するように言われたうえ、何か落ち着きがないと指摘された。」旨の供述(九月六日付け員面調書<書証番号略>)について
まず、押収にかかるケースファイル一冊(<書証番号略>)に編綴中の被告人作成の昭和五九年六月三〇日付けの「移送費明細書」を観察すると、確かに右明細書の終わりから三回分の記載だけは他の記載分に比べて乱雑ではあるが、他の記載部分は、同年七月分の移送費明細書の記載と比べてもほとんど変わりがないといってよく、また線で記載部分を抹消しているのは全部で二四回分記載あるうちの一二回分目の記載で抹消の線にもさしたる乱れがないことが認められる。右事実は右供述の最後の四、五回分が手が震えたため乱雑になったり、誤記を抹消した、線も乱れた旨の内容と明らかに異なるものである。
また、右ケースファイル編綴の「ケース記録」には被告人が六月三〇日に右社会福祉事務所に出頭したことをうかがわせる記載はなく、昭和五九年七月二日として記載された箇所には「主来所。六月分(主)断酒会出席移送費別紙の通り申請有。依って(主)の断酒会参加移送費二四八三〇円支給」と記載され、中村及び宮井の各丸印が押捺されているものの他の箇所には見られる吉田の丸印は押捺されておらず、また、同編綴中の申請者が被告人名義の「保護変更申請書(移送費)」中には、「昭和五九年七月二日」「六月通院交通費合計二四八三〇円」と各記載されていることが認められるが、右事実からすると、被告人は、六月三〇日には右社会福祉事務所には行っておらず、七月二日に行ったものであり、この七月二日にも担当者の吉田には会っていないものと認められるのである。
かようにみてくると、被告人の右供述もその信用性には強い疑問を生じるのである。
二 被告人の員面調書の外の被告人が本件に関与しているのではないかと疑わせる証拠について
1 昭和六〇年五月ころ、被告人から本件犯行を打ち明けられ、その後、同年六月下旬ころ、被告人と一緒に本件便所に行って花などを供えた旨のFの証言について
(一) まず、被告人から犯行を打ち明けられた点について、Fは、同人の第四回、第六回及び第七回公判調書中の各供述部分を矛盾のないようにつなぎあわせるとおおむね以下のとおり供述しているものと解せられる。
「昭和六〇年五月初めころの土曜日、小杉クリニックに診療に行った帰途、被告人が入院中の豊川病院に被告人を見舞った後、被告人に連れられてスパーニチイの一階にある炉端焼きに行った際、被告人はカウンターに座って酒を飲みながら、私に『ジャンボパチンコ店の地下のトイレで女の子が大きな声を出したから首を絞めて殺した』旨打ち明けた。その話を聞いたときは半信半疑だった。」というものである。
しかしながら、右証言は円滑になされたものではなく、同証人は、検察官から被告人が打ち明けた犯行状況について質問されるや泣き伏して容易に答えず検察官から再三促されてようやく途切れ途切れに「ジャンボパチンコ屋のトイレの中」とか「女の子を」とか「六十年五月」とか以下も同様に「トイレで殺した」「むらむらした」「かわいらしい」「大きな声を出したから」「首を絞めて」「私にも小さい子供がおるから全部話した」などとごく短い単語にも等しいような言葉を断片的に供述した。しかも、その内容は具体性に欠け、必ずしも明確ではなく、右程度の供述を難渋しながらようやく証言したものである。
同証人と被告人との関係は、本件当時から二か月余後の昭和五九年九月ころ、両名が通院していた堺市内の浜寺病院のアルコール依存症者の断酒会で知り合い、同年一二月ころ肉体関係を持つようになり、その関係は昭和六〇年八月ころまで続いたものであるが、同証人が過去においては被告人と深い関係にあったとはいえ、右証言のなされた平成元年二月には被告人と関係が切れてから既に約三年六月も経過しているのであるから特に被告人をかばわなければならない事情があるとも思えないし、また、被告人の面前では供述することがためらわれる事情があるものとも考えられない。それにもかかわらず、泣いたり言い渋ったりした挙げ句難渋してようやく右のような断片的な事柄を羅列する程度で実質があるとはいえないような供述しかできない態度をとっていることは不自然で不可解というべきである。また同証人が被告人から打ち明けられたとする右話はきわめて衝撃的な内容を有するものであるから、その話を打ち明けられるに至った経緯、その話をする際の被告人の態度、そしてその話を聞いた同証人の反応などの事情についても容易に忘れられるはずがないのに、同証人の証言中には右の点が全く現われておらず、同人がその話を被告人から打ち明けられた際の状況がきわめて漠然としていて唐突である。その話を打ち明けられたとする昭和六〇年五月ころには、同人と被告人とは肉体関係を持つ間柄にあったとはいえ、お互いに十分に信頼しそれぞれの深刻な悩みや秘密を相談し合う程の間柄であったとは、同証人の証言からは全くうかがわれない。被告人は当時既に警察が本件について自分に嫌疑を抱いていることは十分に認識していたのであるから、被告人がそれほど心を許しているとも思えない重いアルコール依存症の同証人に対して、同証人が他言して警察に伝わった場合には自分にとってきわめて不利になる危険性があるのであるから酒席とはいえ、そのような話を安易にするとは思われない。同証人は、被告人から右話を打ち明けられた後、通院していた小杉クリニックの医師辻本士郎に被告人から打ち明けられた話について相談した旨証言しているが、医療法人弘心会小杉クリニック本院作成のFの診療録の写し(<書証番号略>)を見るに、昭和六〇年一月一九日、同年二月二三日及び同年三月五日の欄には同証人が本件のことに関し被告人のことを心配し、同医師に相談していることが記載されているが、その後同証人が被告人のことを気づかって同医師に相談したような記載は全く見られないし、証人辻本士郎に対する当裁判所の尋問調書によると同証人がその旨の相談を受けた事実も認められない。さらに、Fは、右炉端焼きの入っている場所を、当初は単にスーパーと答えていたところ、検察官に誘導されてニチイと答えたものの、弁護人や裁判長からニチイに間違いないかあるいはダイエーではないかと念を押されるや、どちらだったかよく記憶していないとか、被告人方に行った回数についても五、六回と答えてみたり一〇回と答えてみたり、その証言内容には相当混乱がみられるのみならず、自分自身のアルコール依存症による入院回数や入院時期についても正確に答えられない状態である。
そして、Fのアルコール依存症の病状はつぎのようなものであった。すなわち、浜寺病院作成のFの診療録写し(<書証番号略>)及び前掲小杉クリニック作成の同人の診療録写し(<書証番号略>)によるとFは昭和五五年ころから次第に酒に溺れるようになって、アルコール依存症にり患し、昭和五七年七月二一日から同年九月五日までの約一か月半の間、瓢箪山にある渡辺病院に入院した。同女は同病院に入院中に飲酒行為したことから同病院を強制退院させられた。次いで、同年九月一八日から翌昭和五八年六月三日までの約八か月半余の間前記浜寺病院に入院した。退院後の六月一五日から大阪市内の小杉クリニックに通院していたものの、同病院の医師の勧めにより、同年一二月二二日から再入院することとなり、昭和五九年四月二一日までの約四か月間入院した。右退院後は、酒に手を出さなくなったものの、ケロリンなどの薬物を多量に服用するようになったことから、同年五月二一日に三度目の入院(約四か月半の間)をすることとなった。その時の状態は、「幻覚・妄想があり、興奮・拒絶があり、せん妄・錯乱・もうろうの意識障害がある。気分変動・意志欠如・仰うつ・自信欠乏・無力などの人格の病的な状態にある」と診断されている。そして、同年一〇月五日退院し、再び右小杉クリニックに通院して治療を受けた。昭和六〇年三月三〇日に同病院の医師から入院を勧められたもののそのまま通院を続けていたところ、同年一一月二日に四度目の入院をすることとなり、昭和六一年三月二〇日までの約四か月半の間入院し、その後は前記小杉クリニックに通院しながら治療を受けていたことが認められる。
そして、証人角野信弘の当公判廷における供述(第二一回)によると、取調べの警察官である角野がFから同人と被告人との関係について事情聴取するため、昭和六三年九月五日同人を警察に呼んで、右関係について事情聴取していたところ、二〇分くらいして急に泣き伏したのでその事情を尋ねると、被告人から本件犯行を打ち明けられたことを話したというのである。Fが被告人から本件犯行を打ち明けられたという昭和六〇年五月ころのFのアルコール依存症の状態は、前記のとおりその前年の昭和五九年五月ころには幻覚、妄想、せん妄などが出現するほど悪化しており、約四か月半入院して同年一〇月五日に退院したものの、右打ち明けられたという時期の二か月くらい前の昭和六〇年三月下旬には再び医師から入院を勧められる程悪化した状態にあったにもかかわらず入院しないまま経過していたもので病状が軽快しておらず、同年一一月には結局四回目の入院を余儀なくされているのであり、その間の被告人から打ち明けられたという同年五月ころも病状は相当悪化したままの状態にあったものとみるのが相当である。被告人から打ち明けられたというのは、Fのアルコール依存症からくる幻覚、妄想、錯乱、虚言ないし作話に基づくものではないかという疑いを容れる余地があるのである。警察官角野から取調べを受けた昭和六三年九月ころのFの病状は、受命裁判官の辻本士郎に対する証人尋問調書及び前掲小杉クリニック作成のFの診療録の写し(<書証番号略>)によると、そのころの病状はやや軽くなっているもののなおアルコール依存症により精神的に混乱した状態にあったことが認められ、正常な思考、記憶の再現などはのぞめるものではなかったものと考えられる。取調官角野の取調べの際に右の話を自ら切り出して供述したというのも精神的に混乱していて右の話を被告人から聞いたと思い込んでいたFが角野に対して述べたものか、あるいは、角野が昭和六三年九月五日には被告人が再び否認に転じていたことから、昭和六〇年五月ころ被告人と交際し肉体関係にあった同女が被告人から本件について何か打ち明けられたことがあるのではないかと考え、同女を追及していったところ、右取調べのころにはまだ精神的に混乱していた同女が取調官の誘導のままに認めてしまったのではないかとの疑いを払拭できないのである。前掲小杉クリニック作成のFの診療録の写し(<書証番号略>)の昭和六三年九月一〇日欄の「(患者)色々あってしんどい」とFが辻本医師に訴えていることから、そのころFが精神的に苦悩していることがうかがわれ、この事実はその一つの裏付けとなるものといえる。
(二) 次に被告人と本件便所へ行って花などを供えたとの点についてのFの証言を要約すると以下のとおりである。「昭和六〇年六月八日に被告人が豊川病院を退院したので、その二週間後の土曜日に、小杉クリニックヘ通院した帰途、阪和線堺市駅からバスで××団地の被告人方へ行った。午後一時過ぎころ、被告人方へ行くと、被告人は冷蔵庫の上の空のネスカフェの大瓶を出して、花を供えに行くというので、どこへ行くのか聞いたら、子どもの供養に行くから付いて来てくれと言われた。それを聞いて前に被告人から打ち明けられた話が本当だったのかと思った。それで私がその空瓶をナイロンの袋に入れたうえ布の袋に入れて被告人方を出た。被告人は杖を持って出た。すると、被告人は、供え物の花とお菓子を買いにスーパー・ニチイへ行くと言うので一緒に行った。そして、パック入りのりんご二個、みかん二個、バナナ二、三本の果物とチョコレート、飴を買った代金は千五、六〇〇円だった。花は百合、菊のほかもう一種類の花を買った。代金は二〇〇〇円弱だった。いずれも私が払った。それからタクシーで堺市駅近くまで行った。代金は一〇〇〇円弱だった。これも私が払った。そこから歩いて○○ビル地下にある共同便所へ行った。着いたのは午後二時前ころだった。私が空瓶を出して蓋を開けて被告人に渡したところ、被告人が瓶に水を入れた。洗面所の下が低かったので、二人で花の茎を折って短くして瓶に差した。それを洗面所の下に置いた。果物や菓子は花の横に供えた。それから、被告人は右足を少し投げ出して中腰になって手を合わせて『子どもに済まない』と言って拝んでいた。そして、女の子を大便所の中で殺したと言った後、大便所の仕切板に左肩をもたらせ、右足を少し前に出して涙ぐみながら『済まん、済まん』と言いながら五〇分間くらい拝んでいた。被告人が拝んでいるとき、私は被告人の肩を支えてやりながら、一緒に拝んだ。その間人が来ないかどうか見張った。しかし、共同便所に入って出るまでの約一時間内に誰も来なかった。そうした後、私は被告人と別れて堺市駅から電車に乗って帰った。家に帰り着いたのは午後三時から四時前だった。被告人と別れて帰るとき、被告人は、『毎晩子どもが(夢に)出て来たが、これでもう出ないだろう。』と言っていた」というものである。
右の花などを被告人と一緒に本件便所に供えた旨の供述についても、前記のとおり基本的には被告人から本件犯行を打ち明けられた旨の供述が信用できないのと同じ理由で信用できない。のみならず、以下に述べるとおり右の点についての供述が取調官の角野に話されるに至った経緯や供述内容の個々の点についても不自然不合理な点があってにわかに信用するわけにはいかない。
ア まず、右の点についての供述が取調官角野になされるに至った経緯についてみるに、証人角野信弘の当公判廷(第一七回)における供述によると、Fは、昭和六三年九月五日の取調べの際に、自ら前記の昭和六〇年五月初めころ被告人から本件犯行を打ち明けられた旨の供述をし始めたものの、右の同年六月下旬ころ被告人と一緒に花などを本件現場の男子共同便所に供えに言った旨の話はしなかった。そして、二日後の九月七日に初めて右の点を供述するに至った、というのである。しかしながら、Fは、被告人から供物の話を聞いて、それまでは被告人のさきの打ち明け話を半信半疑に思っていたことが本当のことだと思ったというのであって、Fとしてはさきの打ち明け話と供物の話とは一体性のあるものと認識しており、供物については被告人と行動を共にしているのであるから打ち明け話以上に強く印象付けられていたはずであるから、最初の昭和六三年九月五日の取調べの際に自ら被告人の打ち明け話を持ち出したというのであれば、その際に当然供物の話も出たはずであるのにこれを同時に供述しなかったというのは不自然というほかない。証人田村仁司の当公判廷(第一七回)における供述によると、捜査側は本件現場に花が供えられていたという情報を本件の一周忌の前ころに既に入手していた旨述べており、証人Fも当公判廷において「刑事さんは花が供えられていたということを知っていたと思う」旨、右田村の供述を裏付ける供述をしていることからすると、取調官としては、さきにFから打ち明け話を聞いていたことから、同人が供物のことも知っているのではないかと考え、同人にその点について追及していったところ、前記のように精神的に混乱していた状態にあったFが取調官の強い誘導のまま認めてしまったのではないかと考える余地も十分にあるところである。
イ 次に、Fが被告人と一緒に花などを供えに行ったのは、被告人が豊川病院を退院した六月八日から二週間後の土曜日の午後の自分が小杉クリニックに通院した帰りのことに間違いない旨供述している点も事実に反する。
すなわち二週間後というと六月二二日ということになるが前掲小杉クリニック作成のFの診療録の写し(<書証番号略>)によると、同人は六月一五日に通院しているが、同月二二日には通院した旨の記載はない。カルテの性質からみて診察した医師が記載し忘れたということはほとんどあり得ないし、通院した六月一五日には二週間分の薬が投薬されていることから考えると、医師から六月二二日の通院を指示されておらず、Fも当初から六月二二日は通院しない予定であったことがうかがえるのである。したがって、六月二二日には通院しなかったものと認めるのが相当である。また、Fは、そのころ夫に被告人との関係が発覚していたので、被告人と会うのはいつも小杉クリニックに通院した帰途ばかりで、直接自宅から被告人方に行ったことがない旨供述している(第四回公判調書)ことを併せ考えるとFは六月二二日には小杉クリニックへは通院していないのであるから被告人方にも行っていないものというべきである。してみると、この点からみてもFが同日被告人方に寄った後被告人と一緒に本件現場に行った旨の供述は到底信用することができない。
ウ また、Fが、被告人方の冷蔵庫の上の空のネスカフェコーヒーの大瓶を犯行現場に持っていって、それに花を差したという点も事実に反する疑いがある。
すなわち、被告人の前妻の証人Gの当公判廷における供述によると、被告人は同女との結婚生活中、時々コーヒーを飲んでいたが、あまり欲しがらなかった。そして、同女はコーヒーを飲んでいたが、買うのはネスカフェのゴールドブレンドの赤ラベルであって、ネスカフェの大瓶を買ったことがないことが認められる。また、第九回公判調書中の証人Hの供述部分によると、被告人は、昭和六〇年六月ころから、同女の経営している喫茶店に毎日のように来て、夕食をとって飲酒はしていたが、コーヒーは月に一回くらいしか飲まなかったことが認められる。したがって、ネスカフェコーヒーの大瓶入りの空瓶が被告人方にあったとすればこれは被告人が新生会病院を退院した昭和五九年六月一二日以降に購入し、昭和六〇年六月二二日までの約一年間で全量消費したことになるはずである。ネスカフェコーヒー大瓶入りは二〇〇グラムと三〇〇グラム入りの二種類が販売されており、瓶に貼付されたラベルに記載された一回の使用量は小匙山盛一杯(約二グラム)というのであるから、約一〇〇杯分ないし一五〇杯になる計算となるから、これによると、被告人は二日ないし三・六日に約一杯の頻度でコーヒーを飲んだということになるが、もともと余りコーヒーを飲まない被告人が今回に限って一年間も継続してそのように頻繁にコーヒーを飲み続けて瓶を空にしたということは考えられないことである。また、被告人がネスカフェコーヒーの空の大瓶だけをどこかから自宅に持ち込んで冷蔵庫の上に置いていたということを認めるべき証拠もない。
かようにみてくると、被告人方の冷蔵庫の上にネスカフェコーヒーの空の大瓶が置いてあった旨のFの供述には強い疑念を持たざるを得ない。
エ さらに、被告人が男子共同便所内の大便所の仕切板に左肩をもたれかけさせて約五〇分間くらい大便所に向かって手を合わせて拝んでいた、その間の時間を含めて約一時間本件便所内には誰も入って来なかった旨の供述は非現実的で不自然というほかない。
すなわち、前記認定事実によると、被告人は、供養したとされる約二週間前に退院したばかりでなお腰や下肢の痛みがあって日常の歩行にも杖を必要としていたのであるから、そのような被告人が仕切板に左肩をもたれかけさせていたとはいえ、約五〇分間も同じ姿勢で立ち続けたということについては強い疑問を持たざるを得ない。また、証人K及び司法警察職員作成の昭和六三年八月七日作成の捜査報告書(<書証番号略>)によると、昭和六〇年六月二二日現在で○○ビル地下飲食街で営業していたのは、串カツ「次男坊」、スナック「朋」、同「フルーツ」、同「穴」、一品料理「一幸」、立呑屋「大丸屋」、大衆理容店「アポロ」、喫茶店「ピッコロ」、同「ねむ」、お食事処「民芸」及びお好焼「きよみ」の一一店であり、被告人とFが共同便所に着いた午後二時前ころには、既に右の喫茶店「ねむ」、同「ピッコロ」、大衆理容店「アポロ」、お食事処「民芸」の四店舗は営業中であり、串カツ「次男坊」及び一品料理「一幸」の二店舗は仕込みのための人間がいたというのであるから、被告人らが共同便所内にいた約一時間内に右営業中の店の客、従業員あるいは経営者や一階のパチンコ店の客、通行人らのうちの誰一人として本件便所を利用しなかったというのも非現実的で不自然なことといわざるを得ない。
以上みてきたように、被告人から昭和六〇年五月初めころ本件犯行を打ち明けられた旨及び同年六月二二日被告人と一緒に本件現場に行って花などを供えた旨のFの各供述は到底信用することができないものというべきである。
オ もっとも、証人Jは第五回公判において、「私は○○ビル地下の清掃のアルバイトをしていたが、本件事件の一周忌ころ、本件便所内の手洗い所上の棚の上に大きな百合の花一本くらいと菊の花と名前の分からない花がネスカフェのコーヒー瓶に差されて置かれていた。その横に果物(バナナ一本、みかんとりんごが二個ずつ)とお菓子(おかきとチョコレート)が置かれていた。その一、二日後見たときには、それらは洗面所の下に敷いた新聞紙の上に移動されていた。その後見たときには散乱していたので、その新聞紙に包んで捨てた。」旨前記Fの供述を裏付けるかのような供述をしている。J証人の供述にかかる花の種類及び本数、果物の種類及び個数並びに菓子類はFの供述するところとほぼ符合する。しかしながら、それらをJが見たという場所とFらが置いたという場所とは明らかに異なる。Fらが洗面所の下に置いたものを男性の利用者がわざわざ手数をかけて手洗いや洗面の障害になる棚の上一杯に置き替えたものとは考え難いし、本件便所の清掃人が床面を清掃するに際し、一時脇へ移動させることはあっても床上の汚れた物を洗面所の洗面等の障害になる棚の上に移し替えてそのままにしておくことも考え難い。またそのように認めるべき証拠もない。仮にJ供述が真実であるとするとかえってF供述の真実性には強い疑問を生じるのである。また、前記Kの供述によると、同人は昭和五二年ころからほとんど休みなく前記串カツ「次男坊」を○○ビル地下において営業しているものであるが、同人は、本件事件の一周忌の日に、前記喫茶店「ピッコロ」の女性経営者と雑談中、一周忌が来たから花でも飾ろうという話になって、結局右女性経営者が花二、三本を買って牛乳瓶かその類のものに差して洗面所の上の棚の上に置いたことがあるが、一周忌ころにそれ以外の花とか果物などが共同便所内に供えられているのを見たことがない、というものであって右Jの供述は右K供述と矛盾する。右Jは、昭和六三年九月一二日に右の点について警察官から事情聴取を受けて供述調書が作成されているが(<書証番号略>)、当公判廷における供述は右供述調書に基づいて供述したものと推測されるところ、右取調べの時点でも本件事件の一周忌のころから三年以上も経過しているのに、二、三度目に見たときには既に散乱していて捨ててしまったという程度の関心と認識をもったにすぎない同人が、花の種類や本数、供物の具体的内容をなお鮮明にFの供述と符合するように具体的に記憶しているのはむしろ不自然である。この時点で既に警察官に対してFの供述がなされていることから、Fの供述に合わせて供述したのではないかとの疑いを容れる余地があり、Jの供述はたやすく信用できない。Jの供述はFの供述の信用性を補うものとはいえない。
2 大便所東側壁面から被告人の指掌紋が発見されたことについて
本件大便所内の東側壁の床面から高さ1.2メートル、東側仕切板の内側(南端)から北側へ0.53メートルの位置に被告人の左手拇指の指紋が、床面から高さ1.28メートル東側仕切板の内側(南端)から北側0.35メートルの地点に被告人の右手掌紋がそれぞれ存在している。これは、被告人が八月二三日付け員面調書(<書証番号略>)において、「女の子のズボンとパンツを脱がした後、女の子を東側壁の方に四つんばいにさせ、女の子の尻の方から立ったまま後ろから陰茎を入れようとしたが、陰茎が十分にぼつ起せず、入れようとすると、グニャとなってなかなか入らなかった」旨の供述を裏付けるかのようである。
しかしながら、被告人の右供述によると、被告人は四つ這いの被害者の背後から陰茎を入れようとしてある程度の時間と労力を費している様が見られるのであって、そうであれば被告人は被害者を抱えたりその前の壁に手を着いたりの諸動作を繰り返していたはずであるから被告人の指掌紋は右のほか東側壁のその他の位置にもある程度付着して然るべきであるのに左右の一個ずつしかないのも不自然である。被告人が同時に両手を壁に着いていただけであるとは考え難いところであるが、そうであるとしても、左右の間隔がわずか一八センチメートルしかないからその際の手の広げ方としては不自然な形というほかはないのである。また、被告人の供述のとおりであれば被害者の指掌紋も出て来て然るべきであるのに全く存在しないのである。
以上の事実は、むしろ右被告人の供述にかかるような行為が行われたのではないことを示唆するものである。
そして、東側壁面には被告人のものを含めて指紋が一一個、掌紋が五個付着していたのであるから、そのような場所に被告人の指掌紋が存在していたとしても何ら異とするものではない。被告人の当公判廷(第一四回)における供述によると、被告人は本件より以前の六月二六日に下痢をして大便をもらしたためパンツを汚したことから、パンツを脱いで捨てるため本件大便所に入ったというのであるから、狭い便所内でズボンやパンツを脱ぐ際にバランスを崩して周囲の壁に手を着くことも十分あり得ることであるし、被告人は地階の飲食街には度々来て飲食したことがあるというのであり共同便所という場所柄その機会に指掌紋を残した可能性が絶無と断定することはできないように思われる。右場所に被告人の指掌紋が存在しても不自然とはいえない。被告人の指掌紋の存在することをもって被告人と犯行を強く結びつけるものとはいえない。
3 被告人の血液型と被害者の陰部等から採取された陰毛の血液型が一致し、右陰毛と被告人の陰毛とは高度の類似性があることについて
若槻龍児作成の昭和六三年九月二〇日付け鑑定書(<書証番号略>)によれば、被告人が提出した陰毛七本と被害者の陰部から採取された陰毛八本は、共に顕著で特徴的な捻転屈曲が認められるとの記載があり、また、被告人の陰毛の血液型はA型であることが認められる。そして、前記認定事実によると、被害者の腟内から採取された腟内溶物は、被害者と同じB型(分泌型)を示したことからすると、犯人は、A型分泌型及びAB型分泌型以外の血液型の持主となる。被害者の陰部等から採取された陰毛の血液型はすべてA型であり、被告人の血液型はA型非分泌型である。しかしこれは被害者の血液型と被告人の血液型とが矛盾しないというにとどまり、被告人が犯人であることを積極的に裏付けるものではない。
また、右若槻は、被告人から提供された陰毛七本と被害者の陰部等から採取された陰毛八本とは、共に血液がA型であるうえに、顕著で特徴的な捻転屈曲を有することから、両者は高度の類似性を有すると判断したものであるが、清水達造作成の鑑定書(<書証番号略>)によると、右「捻転屈曲」なる用語は学界で一般に広く認知されているものではなく、その用語で枠決めされた統計報告もないことが認められ、また、最新医学大辞典(医薬業出版株式会社一九八八年版)の写し(<書証番号略>)及び証人清水達造の当公判廷における供述によると、陰毛とわき毛の自然なものは捻転毛とはいわないとされており、被害者の陰部等から採取された陰毛五本を鑑定した篠原忠彦作成の鑑定書(<書証番号略>)には「捻転屈曲」なる用語は使用されていないことから、たとえ「捻転屈曲」の有無、程度から陰毛の類似性を鑑定した右若槻の鑑定結果からたとえ陰毛の類似性が高いといえるとしてもこのことから被告人が本件犯行に関与したとすることはできないというべきである。
4 被告人は、昭和六〇年一月一一日、大阪府黒山警察署において本件につき取り調べられた後、翌一二日午前一時四〇分ころ、自宅の府営住宅の五階と四階の階段の踊り場から飛び降りたことについて
被告人の右行動は、被告人が本件犯行に関与しているため司直の追及を免れないと観念して自殺を図ろうとしたのではないかとの見方もできないではない。しかしながら、被告人は、警察が本件について自分に対して疑いを持ち身辺捜査をしていることを聞知するや、すでに昭和五九年一一月二四日堺東署に出頭し、本件犯行当日の午後六時から午後八時半ころまでは登美丘保健センター内に行われた断酒会に出席し、午後一〇時ころ自宅に帰った旨のアリバイを主張して本件犯行に関与していないことを訴えている。このアリバイは裏付け捜査の結果、出席の事実はなく、否定されたわけであるが、かようにわざわざ自ら警察に出頭して簡単な裏付け捜査をすればその事実が容易に判明するアリバイを主張したということは、被告人が本件犯行に関与していなかったからこそできたものとも思われ、そうでなければ、右主張が虚偽であることが判明すればますます自分を窮地に追い込むことになる危険を冒してまで演技をしたものとは考えられない。新生会病院作成の診療録等(昭和六〇年九月一八日から昭和六一年五月三〇日までの分。<書証番号略>)によると、被告人は、昭和六〇年九月一八日新生会病院にアルコール依存症等の治療のため三度目の入院をした際、同月二一日、同病院の医師に対し、「警察に事件の容疑者として疑われ尋問を受けたことで腹を立て酒を飲んで、もうどうにでもなれと五階から飛び降りた。」旨述べていることが認められ、申述の相手が患者の秘密を守る立場にある医師であることから考えると必ずしも全くの弁解に過ぎないともいえないし、被告人は、アルコール依存症にり患していたものであるところ、アルコール依存症の患者は自殺念慮が強いし同症による無気力で混乱した精神状態が被告人の右飛び降り行為を誘発した可能性もあり、被告人の飛び降りた行為をもって被告人が本件犯行に関与していることの証拠と考えることはできない。
三 被告人の司法警察職員に対する供述調書の供述の任意性を否定した理由
当裁判所は、第二七回公判において、被告人の司法警察職員に対する供述調書一五通中、昭和六三年九月八日付け(<書証番号略>)のほか同年八月三〇日付け(<書証番号略>)中の一三項、九月三日付け(<書証番号略>)中の二丁表四行目から四丁表二行目までの部分、同月四日付け(<書証番号略>)中一丁表四行目末から三丁裏六行目までの部分、同月六日付け(<書証番号略>)、同月九日付け(<書証番号略>)中の一項、二項及び五項、同月一一日付け(<書証番号略>)並びに同月一三日付け(<書証番号略>)各供述調書は、いずれも被告人の任意の供述に基づかないで取調官が記載して作成した疑いがあるとの理由により犯罪事実を証明する証拠として取調べをしなかった。ここで以下にあらためてその理由を補足して述べておく。
1 九月八日付け員面調書(<書証番号略>)は署名押印を欠き証拠能力についての法定要件を欠くものであるからその証拠能力はない。
2 右以外の各員面調書について検討する。
既にみたように被告人は、七月二一日から八月二二日まで連日三三日間、合計一八四時間余にわたる長時間の厳しい取調べを受けていたにもかかわらず、その間、同月一〇日付け及び同月一一日付けの各否認調書が作成されただけで他に調書が作成されなかったという事実は、被告人が一貫して本件犯行を強く否認していたことを物語るもので、被告人を取り調べた田村仁司の当公判廷における供述によってもこれを認めることができる。そして、被告人は八月二三日付け(<書証番号略>)、同月二五日付け(<書証番号略>)及び同月二六日付け(<書証番号略>)の各員面調書で本件犯行を一応認めたものの既に述べたとおり、これらの各調書は具体性に乏しくその信用性にも強い疑問があって自供調書としても証拠価値の乏しいものといわざるを得ない。その後、九月二日までの間は八月三〇日付けの員面調書(<書証番号略>)が作成されたほかは員面調書は作成されていないが、同月二九日、被告人はいったん殺意の点を否認して、また自供に転じるなど動揺した態度を示し、同月三一日の検察官に対する弁解録取手続及び裁判官の勾留質問において、強姦の事実を認めたものの犯行時刻を変えたうえ殺意を否認するなど実質的に犯行を否認する態度を示していることから考えると、右の八月三〇日だけ犯行を自供するというのは不自然であり、また、真実任意に供述したのであれば犯行についての詳細な供述がなされて然るべきであるのにこの八月三〇日付け供述調書は合計六時間一四分間もの長時間取り調べて作成された二一枚もの大部のものであるのに犯行を認めた部分は最末尾のわずか一枚半で犯行のごく概括的な記載にとどまり、しかも「詳しいことは後日述べます」との文言で終わっている。犯行についての詳細な供述が録取されずに終わっていることからこの自供の部分は自供がないのに取調べの警察官が書き加えあるいは強く押し付けて記載したのではないかとの疑いを抱かざるを得ないのである。以上の供述状況からすると、被告人は九月二日まで実質的には本件犯行を一貫して否認する態度を採っていたものと考えるのが相当である。
そして、九月三日には被告人の実母に依頼された福本弁護人が、同月五日には瀬戸弁護人がそれぞれ接見し、その後も数回にわたり被告人に接見していること及び同月三日付け(<書証番号略>)と同月四日付け(<書証番号略>)の各調書はそれぞれ一九枚と一八枚からなるものであるのに比べていずれも自供部分は前者はわずか二枚半、後者はわずか二枚にそれぞれ概括的に認めた記載しかないこと、被告人はそれまで実質的には一貫して本件犯行を否認する態度を採っていたことを併せて考えると被告人がこの時期において任意に自供するということは考え難いばかりか、新たに弁護人が付いたにもかかわらず、任意に供述したとするならば、真実悔心して供述しているはずであるから、詳細かつ具体的に自ら体験したことを供述し迫真力のある供述内容となっているべきところ、具体性の乏しい概括的なわずかの供述しかしていないことからみると右自供の部分は前記八月三〇日付け員面調書(<書証番号略>)について述べたと同様任意性に疑問があるといわざるを得ない。そしてまた、そのころには被告人の否認の態度は一層固まってきているものとみるのが相当であるから、その以後の九月六日付け(<書証番号略>)、同月九日付け(<書証番号略>)中一項、二項及び五項、同月一一日付け(<書証番号略>)並びに同月一三日付け(<書証番号略>)の各自供調書が被告人の任意の供述に基づいて作成されたということは考え難いところである。殊にこのうちの九月六日付け員面調書(<書証番号略>)は、同日検察官も堺東署の調室で四時間余の長時間にわたり被告人を取り調べているにもかかわらず調書が作成されていないのであってはこれまた被告人が強く否認していたことを物語るものであり、また、同日は福本弁護人が被告人と接見しているのであるから、その一方で警察官に対してだけ詳細に自供するということはおよそ考え難いことというべきである。また、九月一一日付け員面調書(<書証番号略>)についてもその前日の九月一〇日の午前中に警察官が取り調べ、午後は検察官が取り調べその夜も警察官が取り調べているのに犯行の自供はなく、その日作成された検面調書(<書証番号略>)は実質否認である。右九月一一日付け員面調書は作成日付けからみてその日に被告人を取り調べた際に作成されたことになるはずである。当日の取調べは午前中は警察官、午後は検察官、夜は再び警察官が取り調べているのであるが、午後の検察官の取り調べに対しては被告人は犯行についての供述はしておらず女性関係について述べているだけであるのでこれは実質否認とみるべきである。したがって、前日警察官及び検察官に対して否認していた被告人が一夜明けると午前中は警察官に対し詳細な自供をし、午後は一転して検察官に対し犯行を否認し、夕刻の休みを過ぎると再び警察官に対して詳細を自供するというまことに不可解な供述の経過をとっている。その体裁と内容をみても、右調書は本文が二八枚、字数にして約九七九〇字にものぼるぼう大なもので、その朗読だけでも約二五分は優に必要とするものであるから、右午前中と夜の警察官の取り調べた時間は合計四時間二〇分でしかなく、その時間内でそれまで強く犯行を否認していて、しかもその中間で検察官に対して否認していた被告人を取り調べたうえ詳細でそれまでの員面調書にもあらわれていない事柄の自供をも得て理路整然とした誤字脱字のあまりない大部の調書を(複写の方法によっているものと思われる)供述を録取して作成し、これを被告人に読み聞かせて署名指印を得るということは至難で物理的にもほとんど不可能といわざるを得ない。内容も末尾の部分に「以上は空想で述べたものである旨」の被告人の供述が付加されてある非常に珍らしいものである。かような員面調書が被告人の供述に基づいて作成されたものと認めることは困難であり、被告人の供述がないのに取調べの警察官が記載して作成したものではないかとの疑いを容れる余地が十分にある。
かようなわけで、以上の各員面調書はいずれも任意性がないものと判断した次第である。
3 もっとも、被告人の右各員面調書に任意性があることを裏付けるための証拠として検察官提出の録音テープ一個(<書証番号略>、本件録音テープという)がある。しかしながら、右録音テープは別の機会に少なくとも二回ないし三回にわたって被告人の供述を録音したものが一本のテープに編集して再録されたものであることは録音の内容自体から明らかであり、録音に従事した証人角野信弘の当公判廷(第一七回)における供述によるとその原本は右再録した二、三日後に他の捜査に使用して録音内容は消去されたというのであり、原本そのものは証拠として提出されていない。そして、本件録音テープの一面(以下テープ1という、後記のとおり八月二六日に録音したものとされている)には一一か所の一時停止と一か所の停止の雑音(いわゆるカット音)が、また本件録音テープの他の一面(以下テープ2という、後記のとおり九月三日に録音されたとされている)には二か所の一時停止の雑音(カット音)があり、原本が編集されて再録されたものであることはほぼ間違いないものと考えられ、右各再録されている部分以外にもなお被告人と取調べの警察官との間でどのようなやりとりがあったのか、被告人がどのような供述をしていたのかの点を確認することができない。そしてまた証人角野信弘の当公判廷(第一七回)及び同田村仁司の当公判廷(第一五回)における各供述によると、テープ1は八月二六日に、テープ2は九月三日に録音したというのである。八月二六日には員面調書(<書証番号略>)が作成されているが、同調書は少なくとも録音された程度の内容の被告人の供述が録取されていて然るべきであるのに同調書の犯行状況についての記載部分は被害者の後を追って本件便所へ入り飾り物を渡そうとしたら断られた旨にとどまっているのに対し、テープ1では犯行状況について右員面調書よりは相当詳しい内容が録音されている。またテープ2が録音されたという九月三日にも員面調書(<書証番号略>)が作成されているが、同調書は一九枚にも及ぶ大部のものであるのに犯行状況についての記載はわずか二枚半に過ぎないのにテープ2の反訳書(<書証番号略>)ではB4の用紙八枚にもわたり印刷されるほどの多量のものである。要するに録音されたという日に作成された員面調書の内容と録音の内容とが符合しない面が多く、むしろ、著しく異なっているとさえいえる。
さらにテープ2についての録音方法について、証人田村仁司は八月二六日に使用したときのもの(標準カセットテープ用日立製録音機)と同一のものの裏面か同種のテープに録音した旨供述している(第一五回公判)のに対し、証人角野信弘は八月二六日に使用したものとは別の録音機(ソニー製マイクロカセットレコーダー)であり、録音テープもそれ用のものである旨供述(第一七回公判)している。田村は本件の主任取調官であり、証人田村仁司の当公判廷(第一五回)における供述によると田村は角野に録音を指示した本人であり、録音後調室で再生して録音状況を聞いてみたというのであって、マイクロカセットレコーダーと標準カセットテープ用録音機とは大きさが全く違うし、その時見たものがマイクロカセットレコーダーであれば、それと八月二六日に使用したとされる日立製の標準カセット用録音機と混同して記憶することはないはずである。そして八月二六日に使用されたとされる標準カセット用日立製録音機は証拠(<書証番号略>)として提出されているがソニー製マイクロカセットレコーダーは証拠として提出されていないことを参酌すると、マイクロカセットレコーダーは使用されなかった可能性が高いものと考えられる。また、本件は殺人、強姦致死という重大事件であり、捜査本部も堺東署に設置されていたもので、被告人は長期間にわたる取調べにもかかわらず一貫して否認していたところ、ようやく自供し、間もなく否認に転じたという変遷をたどったことは、本件捜査に従事した者は皆承知していたのであるから、被告人の供述の変遷状況からみて右録音したテープが将来裁判において証拠として使用される可能性があることを容易に予測できたはずであるのに、わずか二、三日後、右原本テープが他の捜査のために持ち出されて使用されて録音が消去されてしまうというずさんな保管方法をしていたということはおよそ考え得ないことである。
かようにして、本件録音テープの原本となるべきものの録音の日時、方法及び内容があいまいで確認することができない。被告人が八月二九日より後の九月三日の時点においても犯行状況について任意に自白していたことを立証する証拠と考えることはできず、むしろ、かえって被告人が八月二九日までは自白を維持していたがその後は再び否認に転じたことをうかがわせるものである。
第10 結論
以上検討してきたように、被告人の司法警察職員に対する自供調書の何通かは任意性を欠くものであって、その証拠能力を欠き、証拠能力の認められる供述調書中には、客観的状況と符合しない点がいくつかあるのみならず、不自然な点も種々見られ、その内容に重要な点において看過し難い変遷があり、また、被告人から本件犯行を打ち明けられ、犯行現場に被告人と一緒に花などを供えた旨のFの証言も、その内容はあいまいで客観的状況と符合しないものであるから信用性を肯定することができない。そして、いくつか情況証拠についても疑問点がありそれだけで被告人が犯人であると断定することはできず、物的証拠もない。
かようなわけで、本件公訴事実につき犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをすることとする。
(法令の適用)<省略>
(量刑の理由)<省略>
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小河巖 裁判官江藤正也 裁判官森脇淳一は転補のため署名押印できない。 裁判長裁判官小河巖)
別紙<省略>